(校正者注:本テキストデータはunicode UTF-8で作成。 グラフ・表等は省略。ページは音声で表現した時を配慮し改行したため変更した部分がある。文字ゴジック体、罫枠等は表現の対象といなかった。)

表紙1
中野区の障害児・者への東日本大震災による影響についてのアンケート調査結果報告書
2012年3月
中野区障害者防災委員会


表紙2
 

 中野区障害者防災委員会は、5年前から中野区内の障害者が震災時にもあわてなくてすむような中野区を作っていくために、さまざまな活動を続けてきました。最初のころは色々な助成団体から助成をいただき、それを活動資金として、学習会を開いたり、区民の方に障害者のことをわかっていただくための交流会を開いたり、障害者独自の避難訓練を実施したりしました。そして、2年前から中野区より公益活動としての助成を受けながら、活動を進めています。
 こうした中、2011年3月11日に東日本大震災がおこり、現地はもちろん、中野区でもかなりの被害が出ました。震災発生当日の交通マヒ、数日はガソリンスタンドに長蛇の列やスーパーやコンビニに日用品が並んでいない状態、そして、品不足は10日間くらい続いたことは記憶に新しいでしょう。
 大震災以前の障害者独自の避難訓練のやり方として、メール連絡を中心としていましたが、震災直後の避難にメールは役立たないことが今回の大震災の経験でわかりました。私たちは、現地の方々のご意見や自分たちの経験をもとに、私たちの活動内容について話し合いました。その結果、中野区という地域に障害者が一緒に暮らしているということを区民の皆さんに知っていただくこと、こうした基本の基本、地道な活動、これが大切だということがわかり、中野区が毎年地域持ち回りで実施している防災訓練に積極的に関わる事、中野区の関係団体とこれまで以上に交流を深め、「区民の間の絆」を太く、強くしていくことなどを確認しました。
 そして、こうした活動を具体的に進めていくためには、今回の大震災による経験をまとめて、教訓として残すだけではなく、かなりの確率で発生すると言われている首都圏の大震災に備えるために、中野区内の障害者や関係者にアンケートを実施しました。このアンケートの結果が、中野区の障害者だけでなく、高齢者、子ども、女性、外国の方、そして一般の区民の方々の震災時の参考になれたら、東日本大震災に被災された東北や関東の方々に、ごくわずかではありますが、「私たちもなかまだよ」という声を出していけるのではないかと思っております。
 最後になりましたが、このアンケート集計などについてご指導いただきました、立命館大学大学院の立岩真也教授、こども教育宝仙大学の松原豊准教授はじめ関係者の皆様にお礼申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。

中野区障害者防災委員会 
代表 矢野耕二

目次
1.アンケート実施にあたって
2.アンケート結果…1
 [1]記入者のフェイスシート…1
 [2] 3月11日震災当日の障害児・者の状況…4
 [3] 翌日や数日後、困ったことは何でしたか?…11
 [4] 震災後、安否確認などのために、誰かが訪問または連絡してきましたか?…13
 [5] 震災を経験してどのような対策があればいいと思いますか?…14
 [6] 災害時のためにご自分で準備していることや行っていることを教えてください。…16
 [7] その他、感想、意見、要望などお書きください。…18
3.アンケート結果から見えた課題
 [1] 障害別の課題…20
 [2]アンケートから見えた共通の課題…23
4.各障害者団体からの提言…25
5.個人の報告…26
資料…32
3.11東日本大震災アンケート その他の記述分…34

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中野区の障害児・者への東日本大震災による影響についてのアンケート調査結果

1.アンケート実施にあたって

■目的:3月11日14時46分、東日本大震災発生。中野区も震度5強の地震にみまわれた。障害者防災委員会として、中野区における震災時の障害児・者の状況と課題を把握し、障害者の防災対策に反映させていくために、アンケートを行うことにした。
■方法:中野区障害者防災委員会に参加している、中野区聴覚障害者福祉協会、NPO法人中野区視覚障害者福祉協会、中野区愛育会、中野区肢体不自由児者父母の会、中野区中途失聴・難聴者の会、中野区障和会、NPO法人ねこの手、LLCてくてく、中野難病家族会が、会員や関係者に配布し回収した。
■アンケート配布期間:2011年8月20日~10月31日

2.アンケート結果

[1]記入者のフェイスシート

1)ご記入いただいた方(校正者注:グラフ 省略)
① 障害者本人(介助者代筆も含む) 90人
② 保護者 30代 8人 40代 46人 50代 36人 60代 35人 70代 26人 80歳以上 4人
年齢未記入 6人 計 161人 *①か②が未記入 2人
③ 支援者 96人
*障害者本人または保護者計 253人
*回答者数合計 349人

2)障害児(者)本人の状態(校正者注:グラフ 省略)
①年齢(2011年3月11日現在)
10歳未満10人 10代58人
20代 36人 30代 35人 40代 34人 50代 23人 60代 15人 70代 27人 80代 9人 90代 2人 空欄4人

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(校正者注:表 省略)

 視覚障害者のうち60歳以上が24人中18人で75%、聴覚障害者のうち60歳以上が26人中20人と77%で、高齢者の割合が高い。一方、知的障害者は、10歳未満と10代の回答者が41%を占め、50歳代までの回答者を合わせると93%にのぼり、60歳以上は7%と少ない。肢体障害のある人のうち60歳以上の割合は38%、重心障害者のうち60歳以上は13%、精神障害者はすべて60歳以下であった。障害により回答者の年齢に大きな違いがある。震災時の状況の違いも、回答者の年齢の違いが大きい。

② 性別
a男 144人 b 女 105人 記入なし 4人
③ 障害等の種別(複数○可)
a 肢体 44人 b 聴覚 32人 c 視覚27人 d 内部 6人 e 知的 162人 f 発達 18人 g 精神 23人 h 難病 3人 i 高次脳機能 2人 j その他 4人(認知症1人・四肢痙性1人・その他 2人)


 このアンケートでは、障害が重く介助をより多く必要とする人の災害時の状況を把握するため、身体障害者手帳1種1級または1種2級の肢体障害があり、かつ愛の手帳を持つ人と、難病等で医療的ケアを必要とする人を、「重症心身障害・難病(略して重心と記す)」として分類した。重心に分類した人以外の愛の手帳所持者は知的障害に分類した。知的障害の中には、発達障害や精神障害、肢体障害、聴覚障害、視覚障害等を重複して持つ人も含んでいる。内訳は以下の通りである。
障害別内訳 回答者253人
 視覚 25人 聴覚 26人 肢体 17人 知的 148人 重心 24人 精神 13人


④手帳の有無
a 手帳なし10人 b手帳あり241人 未記入2人
(身体障害者手帳 101人 愛の手帳 160人 精神障害者保健福祉手帳 15人)

⑤支援の有無(複数○可)
a一部介助 69人 b 全介助 31人 c ヘルパー利用 57人 d 電動車いす 8人 e手動車いす 20人 f ガイドヘルパー利用 51人 g 点字使用 11人
 h手話通訳利用 18人 i要約筆記利用 7人
⑥居住状況(校正者注:グラフ 省略)
a一人暮らし 28人 b 家族と同居 206人 c グループホーム 18人 空欄 1人

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 空欄1を除いた全体では、家族と同居が82%、一人暮らしが11%、グループホームが7%で、家族と同居が圧倒的に多い。しかし、障害別に見ると、視覚障害者は一人暮らしが25人中13人で割合が52%と障害別の中で一番多い。災害時に孤立しがちなのは一人暮らしの障害者である。視覚障害者に次いで一人暮らしが多かったのが、肢体障害者で17人中6人で35%、3番目が聴覚障害者で26人中7人で27%だった。
 精神障害者はグループホーム居住者が13人中6人で46%と半数近く、一人暮らしは2人だった。重心は100%家族と同居。知的障害者は家族と同居が148人中136人で92%と割合が高く、グループホームが8%で、一人暮らしの人はいなかった。障害の種別により居住状況に特徴があった。家族との同居が多い知的障害者は日中は、通学・通所などで家族から離れている割合が高く、今回の震災では家族と連絡が取れないなど混乱に巻き込まれた。重心は家族と同居しているが、障害が重く医療的ケアがあるなど、家族だけでの避難は困難な状況にある。

⑦ 日中の状況(校正者注:グラフ 省略)(校正者注:表 省略)
a 通園 2人 b 通学 61人 c 通所 108人 d 職場 31人 e 通院 10人 f 在宅 48人 空欄 3人

 日中の状況は、通園・通学・通所・職場とどこかに通って

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いる人は、空欄を除いた全体で81%にのぼり、在宅の人は19%であった。(通院はダブるので除く)しかし、障害別に見ると、聴覚障害者では26人中19人と73%が在宅で、在宅率が高い。反対に知的障害者は146人中在宅の人は1人で、99%が日中どこかに通っていた。視覚障害者も聴覚障害者の次に在宅率が高く、25人中17人と68%が在宅である。これは、アンケートの回答者の年齢構成とも関係しており、聴覚障害者は60歳以上が77%を占め、視覚障害者は60歳以上が75%を占めており、高齢者の割合が高いことと関係していると考えられる。肢体障害は在宅者が16人中7人で44%、重心は24人中4人が在宅で17%。精神障害者は回答者の全員が通所や職場でどこかに日中通っている状況であった。
 今回の震災は14時46分と、学校からの下校時間や通所からの帰宅時間と重なっている。8割がどこかに通っているという障害者の日中状況が、震災により大きな影響を受けた。

⑧中野区非常災害時救援希望者登録制度について(校正者注:グラフ 省略)
a登録している 51人 b 登録していない 184人 空欄 18人
 登録している人は20%しかいない。しかし、震災後、登録してあるのに、安否確認がなく、登録の意味がないとの意見が寄せられている。また、この登録制度をアンケートにより知った人もおり、制度の周知も十分ではないことがわかる。

3)③支援者の内容を教えてください。
支援者96人の内訳
ヘルパー 30人 通所施設職員 28人 企業の指導員など 11人 ジョブコーチ 7人 学校教職員 7人 グループホーム職員 6人 * ボランティア 1人 社会福祉協議会職員 3人 その他 3人

[2]3月11日震災当日の障害児・者の状況

1)地震が起きた時、どこに居ましたか?(校正者注:グラフ 省略)
①屋内 227人
通所施設 77人 自宅 52人 学校 35人 職場 25人  学童クラブ・児童館 6人 ボーリング場 6人 スマイルなかの 3人 病院 3人 グループホーム 1人 その他の屋内 19人

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②屋外 26人
道 17人 電車やバスの中 8人 駅 1人

 屋内にいた人が90%、屋外にいた人が10%でほとんどの人が屋内にいた。日常的に通っている通所施設にいた人が30%、学校にいた人が14%、職場にいた人が10%、学童クラブ・児童館を含めると57%の人が日中いつも通っている場所にいた。自宅やグループホームの住まいにいた人は21%だった。
 下校の時間帯にあたっていたため、屋外で一番多かったのが道にいた人である。

 ③ 屋内にいた時何階にいましたか?
 地震でエレベーターが止まると移動が困難になる肢体と重心の41人のうち、 1階 13人 2階 6人 3階 10人 5階 2人 不明 9人 屋外 1人
 2階以上の屋内にいて地震にあった人は18人で44%いた。 スマイルなかの5階にいた2人は、居合わせた職員らの手により、1階まで降りることができた。

2)地震が起きた時、障害のある人のそばにだれか居ましたか?(複数○可)(校正者注:グラフ 省略)

① だれも居なくて一人 26人 ② 家族 43人
③ 職場・通所の同僚 46人
④ 友人 14人
⑤ 近所の人 2人
⑥ ヘルパー 12人
⑦ 学校教職員 35人
⑨ 福祉施設職員 81人
⑩ ガイドヘルパー 2人
⑪ 手話通訳・要約筆記者 4人
⑫ 医療従事者 4人
⑭ その他 1人

 57%の人が、日中いつも通っている学校や通所施設にいたために、そばにいた人で一番多いのが、福祉施設の職員、2番目が、職場・通所の同僚、3番目は家族、4番目は学校教職員となっている。5番目に多いのが、だれもいなくて一人だった人で、26人10%いた。災害後安否確認がまず必要になるのは一人だった人である。自宅で一人だった人が18人で一番多く、ついで道で一人だった人が6人で2番目に多かった。

3)地震の直後どうしましたか?また、困ったことは何でしたか?

障害別の主な事例(年齢の年代・被災場所・一緒に居た人)
視覚
① 連絡が取れず困った。帰宅が大変だった
* 息子と連絡が取れない。帰宅に時間がかかった。徒歩で3時間。(40代・職場・同僚)

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② だれかが一緒にいてくれて助かった
* ガイドさんと二人だったので心強かった。(80代・友人宅・ガイド)
③ ひとりで恐かった
* 揺れがひどく恐かった。動きがとれなかった。助けを求められず、翌日ヘルパー事業所からヘルパーさんが訪ねてくれた。(50代・自宅・ひとり・一人暮らし)

聴覚
① 近隣とコミュニケーションがとれず困った
* 机の下にもぐってその後家の外に逃げた。近所の方とのコミュニケーションが取れずに困った。伝えたくても伝わらない。(70代・自宅・ひとり)
② メールが取れず困った
* 携帯のメールが取れなかったので困った(70代・自宅・家族)
③ 放送が聞こえないのが困った
* 「電話が出来ない」「放送が聞こえない」のが一番不便だった。(40代・職場・同僚)
④ 通訳者がいたので助かった
* スマイルなかのにいた時に通訳者が来ていたため、情報を聞くことができた。電車が止まっていたので情報がわからなかったが、通訳していただいたおかげでやっと家に帰ることができた。もし通訳者がいなかったらどうしたらよいかわからなくて、帰ることが難しかった。(70代・スマイルなかの・手話通訳者)
⑤ 情報がほしかった
* 情報ほしかった。自宅に帰る時周りは人で怖かった。昔の戦争のことを思いだした。(70代・屋内・友人)

肢体
①エレベーターが止まり困った
* 3月11日2:46忘れもしない出来事だった。クラクラと来てアッ地震だ!みんな机にしがみつき止るのを待った。エレベーターも止まっているので外階段からおろしてと言い、スマイルの中にいた男性が3人で、重たい車椅子に私の体重50キロ、車椅子の重さ22キロと70キロ以上もあるのに、外階段は風が強く吹いていてダメだったので、結局中の階段を一階出口まで下ろしてもらった。(60代・スマイルなかの5階・友人)
* 自宅に帰った。しかし、地震でエレベーターが止まり、団地の人達4~5人で階段をかついで一階まであがり、もうだめと言われて、電話をかけて消防署、レスキュー、警察、しかし、3時間~4時間待ってくださいとのことで。そこに「どうしたの」と看護師さんがみえて、担架に乗り無事自宅の5階についた。(70代・スマイルなかの5階・知人)
② 家族と連絡がとれず一人きりになり不安だった
* 家族と連絡が取れなかった。電車が止まり夜中まで一人きりになってしまった。(20代・自宅3階・ひとり)
* 家族にTELしたがなかなかつながらず、連絡が取れても帰宅がすぐに出来ず、夜9:30頃だったので、とても不安だった。(50代・自宅2階・ひとり)
③ ヘルパーがいて助かった
* 地震発生時はヘルパーと過ごしていた。外出予定だったが行く前で助かった。震災後、しばらくの間、マンションのエレベーターが停止。外出が困難になった。揺れにより、家財道具が移動したり落ちそうになったがヘルパーが防いでくれた。(自宅6階・ヘルパー)

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重心
① エレベーターが止まり困った
* 通所バスで帰宅したが自宅がマンションの8Fでエレベーターが止まり、8Fまで通所施設の職員と管理人に運んでもらった。(40代・通所施設3階・職員)
* 自宅がマンション5Fにあり、エレベーターが停止し、5Fまでおぶって上がったが、車椅子を1Fに置いたままだったので、エレベーターが動くまで車椅子での移動ができなかった。(20代・通所施設3階・職員)
② 呼吸器使用のため停電が一番心配だった
* 夜のヘルパーが電車不通の為、来られなかった。呼吸器使用のため電気の問題が一番心配だった。直下型が来た場合、ヘルパーが来ることも不可能だと思うし、又、電気が止まれば一人でアンビューを何時間も押し続けることも無理だと思っている。(90代・自宅・家族)
* 地震がおさまるまで公園(自宅前)に避難。おさまった時自宅に入るが余震続きで出たり入ったりとあわただしかった。酸素を24時間使用しているため、酸素管理、吸引器管理など医療的ケアに関しての心配が強かった。(10歳未満・自宅前・家族)
③ ヘルパーがいて助かった
* ヘルパーの付き添いで帰宅。見守りの支援もあり助かった。(20代・通所施設・職員)

知的
[通園・通学]
① 地震におびえ気持ちが不安定になる
* 揺れる度に子供が怖がり、テレビの津波の映像にも拒否反応を示し、落ち着かない状態が続いた。(10代・学校・家族)
② 下校時一人だった子どもが心配だった
* 母親入院だったので、電話が不通になってしまい状況がわからず、1時間以上してからメールで、子供の迎えの件がわかるまで、何もできなかった。引き取りのことがわかるまで、かなりの時間がかかったため、児童の姉が迎えにでたころには一人で途中迄歩いてきたそうで、誰も近くにいなかったら~入院先も遠かったので、本当に困った。(10代・学校・教師)
* 学校が14:30下校だったので安否確認をどうしたらいいか考えた。私も地下鉄九段下にいたのでホームの公衆電話に2度並び学校にかけた。14:30下校の後、介助の先生が駅まで行って呼び戻して下さったことがそこで確認できたので(何度か電話して)、私は学校に徒歩で向かった。バス、タクシーは渋滞でだめで新宿まで歩き電車を待ったが動かずバスと徒歩で夜10:30頃学校についた。(10代・道・ひとり)
* 学校から帰宅中、路上で地震にあったが、偶然、元の担任の先生がいらして、気をつけて帰るよう注意して頂いた。親が急いで迎えに行ったが、通学路が決っている為、途中で会うことが出来た。(知的10代・道・ひとり)
③ 学校・学童・児童館との連絡が困難で、引取り方法が混乱した
* 地震直後学校へ電話したら、出られた方より「自宅で待機してください。」と言われて1時間以上待った。連絡も無かったので、何度も何度も学校へ電話したら、やっとつながり「お迎えに来て下さい」とのこと。1時間以上家で待たされる不安は言葉であらわせない。恐怖との戦いだった。(10代・学校・教師)
* 私が外出していたため、外出先から学校までバス、電車などを乗り継ぎ、学校に迎えにいけたのは深夜12時になった。(10代・学校・教師)
* 学校との連絡が取れず、自分がどのように動いて良いのかわからなかった。兄弟を家に残して、学校までの迎えは不安。当日主人が帰宅できなかったので、私が一人で子供達の引き取りで大変だった。(10代・学校・教師)
* 学校に迎えに行ったのに帰してもらず1時間位寒空の下で待たされた。(10代・学校・教師)

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[通所]
① 通所施設との連絡が困難で、引き取り方法が混乱した
* 通園バスが定時(15:30)に出るかどうか確かめたかったが『災害用伝言ダイヤル』が機能せず、連絡できなかった。(20代・通所施設・職員)
* 迎えに行こうと思っても行き違いになると困るし、電話は通じないしで、電話が通じる自宅に、親は待機していた。幸い、 1時間半で通じたが緊急時に電話が役に立たないことを身をもって知った。(40代・通所施設・職員)
* 当日、外部の清掃に出ていたので(施設ではなく)どこに迎えに行けば良いのか(連絡が取れなかったので)わからず困った。日頃から注意していれば良かったが、避難場所を忘れてしまっていた。当日、通りに出たら、バスが走っていたので大丈夫だと思い、自宅で待っていたら通常の時間に帰宅できた。(20代・通所施設・職員)
* 通所施設(作業所)の方が家まで送って下さったので助かった。(50代・通所施設・職員)
* 作業所で迎えに行くまで預かってくれた。(40代・通所施設・職員)
* 連絡が取れなかった。マンションの家主さんに連絡がつき、無事に帰宅していることが確認できた。夕食の準備も何もしていないため食事が心配だった。保護者の帰宅は午前3時過ぎだった。(30代・ボーリング場・職員)
* 本人はヘルパーさんと直接帰宅したので困らなかった。(40代・電車バス・ヘルパー)
* 連絡がなかなか取れず、一人でいるのか退勤していないか不明で不安だった。(20代・通所施設・職員)
② 地震におびえ気持ちが不安定になる
* 当日は午前中、口腔センターに行ったので、3.11は作業所を休み、帰宅して遅い昼食をとり昼寝をしたところだったが、“長い揺れ”に飛び起き、家の中をウロウロしたので、ベッドに坐らせ、私も一緒にいた。一緒にいないと動き回ってしまう為、強く 「坐って!!」 と制したが、もっとひどい“揺れ”、家の中のものが倒れたりしたら、パニックになり、制止ができなくなる可能性がある。(30代・自宅・家族)
* 帰り、一人になって恐かった。避難所をもっと増やしてほしい。(30代・バスの中・職員)

[職場]
① 会社との連絡が困難で、帰宅困難への対応が不安だった
* 一人でエレベーターの中にいたが、すぐに「地震です。最寄りの階で急いで降りて下さい」とアナウンスがあり、エレベーターを降りて近くの部署の人が一緒に机の下などに入れてくれたとの事。当日は会社に泊めてくれた。携帯はつながらないので、会社の電話と家の電話でやりとりした。(20代・職場エレベーター)
* 直後は職場にいたので安心だったが、帰宅するのに連絡がなかなかとれず(携帯やメールが通じにくかった)交通機関も混乱していたので心配だった。(20代・職場・同僚)
* 横浜のクッキー工場に職場研修の最終日で帰り支度をしている時地震があり、東京の自宅に帰る電車が止まって帰ることが出来なかった。職場に電話したがつながらず、6時頃職員の人から電話があり、道路事情が良くなってから会社の自動車で送ってくださり朝4時頃家に戻って来た。電車に乗ってから地震が来たらどうやって帰ったら良いか本人はパニックにおちいり路頭に迷うことになったと思う。(40代・職場・同僚)
* 職場と連絡が取れたのが地震の2時間後。仕事はすぐ中止し、休憩室で待機とのことでタクシーで職場に迎えに行った。到着したのはさらに3時間後で、その間息子は上着を着てバッグを抱えてじっと待っていた様だ。本人には地震のため仕事が中止になったと説明があったそうだがきちんと理解できておらず、私の顔をみるなり「ごめんなさい」と謝った。本人は何か悪い事をしたので帰されると思ってしまったようだ。帰宅までにはさらに3時間かかった。(10代・職場・同僚)
* 所長が車で送ったが道が渋滞していた。(本人)はじめ職場から会社に泊めると電話がきた。その後所長が車で帰り道のコースの従業員を何人か乗せて送ってくれた。道がとても混んでいてなかなか進まず、ふだん6時半頃帰宅するのに 11時になっても戻ってこず、心配して会社に電話をかけた。帰宅は11時15分ごろ。家は沼袋駅北側だが、車から降ろされ
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たのは中野駅南口の中野郵便局前だったそうだ。そこから20分ほど歩いてやっと帰ってきた。地震直後(最中?) 本人は焦って 「外を見てきます」 と飛び出そうとしたが上司が危ないから出ないように止めてくれた。(20代・職場・同僚)
* 会社に連絡が取れず、時間がかかって(1時間くらい)ようやく電話連絡が取れた。親がバスを乗り継いでやっと会社に着いたら、本人が退社時間と重なったという事もあり、退社して最寄りの駅に行っていて本当にあわてた。駅で見つけて一緒に帰れたが…。(20代・職場・同僚)
* 入社日で支援員が一緒だったが、携帯で連絡が取れず、事業団の方から夜になって泊まらせる、大江戸線が動き出したので帰すなど、いろいろあった。結局翌日AM1:30頃、支援員と一緒に近くの駅まで帰って来て、迎えに行った。会社内で起き、また支援員が一緒で助かった。会社側は今後震災が起きた場合は、泊まらせることにするそうだ。(30代・職場・同僚)

精神
① 連絡が取れず困った
* 家族と連絡が取れなかった。
② 帰宅が大変だった
* 電車が止まってしまい、帰宅が困難になった。(渋谷から徒歩4時間)
③ どうしてよいかわからなかった
* 外に出たが、外に出た方が良いのか、建物の中にいた方がいいのかわからなかった。

支援者
① 帰宅させるか待機させるか判断に迷った
* 直後は机の下に隠れる、16時の帰宅時間に自主退所させるか、待機かの判断が難しかった。迎えの家族が来られないため、本人を自宅まで、又は、他区の方はタクシーで送った。携帯や電話が繋がらず、会館バスの到着や、帰宅の安否確認に時間がかかった。(通所施設職員)
* オープンスペース利用者が数名いたが余震が続いた為帰宅させるタイミングの判断が難しかった。家族に連絡を取ろうとしたが、電話がつながりにくく困った。結局夜まで施設で預かることになる。その日のうちに連絡が取れ迎えに来ていただけたが、迎えに来ることが出来なかった時、施設に布団等の備品が無かったため泊まることが難しかったと思われる。(福祉施設職員)
* 電話(固定・携帯)が不通で情報の収集に困った。いつどのタイミングで帰宅させるか、判断が難しい。(通所施設職員)
* 清掃用具類の片付け中だったので、チャレンジド全員近くにいたので、揺れが収まった時を見計って4階の事務所に集まり3時15分頃の余震の後本社へ電話するも不通。交通機関も止まり、また余震を想定し避難する場所がどこが一番安全かと咄嗟の判断が出来なかった。一人で徒歩による帰宅をさせてよいものかの判断、電話不通、交通関係の停止、徒歩で帰宅する時誰に同行すればよいのかの判断に困った。(企業の指導員)
② 保護者と連絡が取れなかった
* 下校の際に学校に迎えに来ていただくことになっているが、連絡が取れず2名しか迎えに来られなかった。残りの生徒達は担任が手分けして家まで送り届けた。(学校教職員)
* 生徒下校後であったため、交通機関利用生徒の確認のため、バス停、駅に教職員を手配するとともに、各家庭、保護者に連絡をした。電話回線が混乱していてつながらないことが困った。(学校教職員)
* 電話で各家庭への連絡ができなかった。緊急時優先回線が1本有るが足りなかった。利用者は全員帰宅できたが、職員は帰宅困難者7名。施設の破損状況を調べたが慌てているので正確さにかけた。情報把握の方法がテレビしかなかった。(事務所にテレビ・ラジオが無かった)(通所施設職員)

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* 保護者との連絡が確実についた利用者から引き取り、自力で帰宅してもらった。電話がなかなかつながらず、連絡をとるのに時間がかかった。
③ グループホームから利用者に連絡が取れず困った
* 作業所、会社など通勤先へ連絡するが、なかなか連絡が取れなかったところが多々あった。グループホームなので、利用者一人一人通勤先が異なるので迎えに行くのも人によってすぐ行けず、交通渋滞もあり夜になる方々もいた。お休みをとってグループホームにいた方は、その時間はグループホームに帰宅されていたので保護できたが、一人外出中の時に起こると対応が困難となる。(グループホーム職員)
④ 安否確認が難しかった
* 連絡が取れない状況が続いた。(通所メンバーの家庭、就職している登録障害者、企業等)通所メンバーについては、訓練室を早めに終了し帰宅させた。その後の状況確認を取る事が困難であった。(通所施設職員)
* 通所者の方をそれぞれご自宅に帰宅して頂いた後、電話が通じず安否確認ができなかった。(通所施設職員)
⑤ 学校での対応の事例(学校教職員)
* 教室にて、生徒と帰宅できない保護者と伴に宿泊することとなり、その準備や状況把握が大変だった。
* 帰宅できず学校に宿泊。対策本部を設置、子どもの安否を確認。
* 授業が終わり帰りの学活中だった。日頃の訓練通り机の下に、揺れが収まって校庭に避難した。災害時には生徒を保護者に直接引き渡すことになっていた。対処の方法に迷いはなかったが、保護者と連絡が取れなかった。数件は家まで引率して引き渡したが、大半は保護者に学校まで迎えに来てもらった。最後の一人が下校したのは午後11時40分だった。
⑥ 通所施設での対応の事例(通所施設職員)
* 施設のエレベーターが停止し、利用者は3階で活動しているので、車椅子の方を職員がひとりずつ降ろした。送迎バスは、通常より少し遅れての出発になった。利用者の自宅のエレベーターも、停止していたため、添乗していた職員が抱えて自宅まで上がった。職員は、1人が帰宅できず泊まったが、それ以外の人は、いろいろな手段で、帰宅することができた。
* 避難経路を確保しテーブルの下にもぐった。また、入浴後職員と着替え中の利用者もいたが急いで整え部屋に戻る。帰りの送迎バスは職員が添乗して送り届けた。交通機関のストップや携帯電話がつながらないことが困った。
⑦ 企業での対応の事例(企業の指導員など)
* 電話連絡がなかなかつかなかった。電車が止まって帰れない人は会社に泊まった。その際社員が障がい者の面倒をみた。特にパニックは起こらなかった。
* 本震直後は、その場で支援スタッフが障害者メンバーに頭を守るように伝えた。収まった後、屋外へ避難。当日は障害者メンバー、支援スタッフ約30名が会社へ宿泊(ご家族へ連絡の上)。特に混乱なく一夜を過ごせた。
* 家族となかなか連絡が取れず本人がとても不安がっていた。また、職場全体が混乱していた為なかなかご本人への気配りができなかった。家族と何とか連絡が取れたが迎えに来るのに多大な時間がかかった。
* 交通機関のマヒにより帰宅が出来ない社員については、保護者にTEL連絡をし帰宅方法の相談をしようとしたが3~4時間以上不通だった。徒歩で帰宅できる社員は帰ることができたが、比較的近くても歩いて帰宅する経験がないので、指導員が同行した。(同行するため、他の社員のメドが付くまで手配をしたので、同行可能になったのは深夜になった。)
* 全員怪我なく無事に一時避難場所に避難した。各家族との安否を確認するのに携帯電話がつながらず、結果的には会社の電話にて時間がかかったが対応できた。数名のスタッフが帰宅できず、体育館に宿泊した。特に不安はなく、非常食なども食べて、翌日無事に帰宅させた。
* 社内で待機。家族に連絡し、迎えが可能な場合は、会社へ迎えに来ていただいた。迎えが難しい場合は、電車が動くまで社内待機。連絡がつかない(不通)、連絡がついても道路状況などで動けないなどの事態に困難を感じたが、社員は落着いていた。

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⑧ ヘルパー等の対応の事例
* 当日ガイドヘルプ予定の利用者の方の保護者及び事務所と終日連絡が取れなかった。
* 障害者を一人にしておけないので家族が帰宅するまで障害者のそばにいた。ヘルパーが家に帰る交通がストップした。結局親類宅に宿泊した。
* 利用者宅で置物が倒れるなどしていて、避難経路を確保するのに手間取った。夜間で停電中なら一層困難であったと思われる。
* 事務所で一人だったため、何をするべきか判断を一人で考えねばならず、不安だった。直後に出勤予定の介護員との連絡、その後事業所の全介護員へ連絡をとり、安否確認を行った。連絡がすぐに着かない人も多かった。電車が止まり夜中まで帰宅できなかった。介護員が出勤できたのを確認したのち帰路に。食べ物がなく食事をとれなかった。
* 福祉会館内(職場)の来館者の安否確認。担当事業の利用者へ連絡、つながらないところがあった。エレベーターがとまって車イスの来館者が下に降りられない状況だった。階段で車イスごと介助して降ろした。自分が帰宅できなくなった。(社会福祉協議会職員)

[3] 翌日や数日後、困ったことは何でしたか?

視覚
① 食料や日用品などが買えなかった
* 電車が(通勤)遅れていた。トイレットペーパー、自販機の飲み物が一時的になかった。
* 食糧がスーパーで売り切れで買えなかった。ガスがつかず困った。
② 安全の確認
* 安全の確認。連絡が取れなかった。食糧の調達が難しかった。

聴覚
① 食料や日用品などが買えなかった
* 飲み物や食料がない、情報がない。
② 近所の人と話が通じないので困った
* 近所の方々と話が通じないことが困った。
③ 連絡ができず困った
* 親戚などとの連絡が出来なかったことが困った。
④ 不安だった
* 体調の優れない家族の避難を確保するため、川の字で居間に寝たり、避難用具をリュックサックに一人ずつ用意した。毎日、ポットに温かい飲み物を入れつづけたり、余震が夜に起きる日が続いたため、家族を安全な場所にゆっくりつれて行く緊張した状態が続いた。足を伸ばして眠れなかったことも少々疲れた。最も大変だったことは、夜に余震があるたびに母の不安感が強まるため、気疲れした。

肢体
① 余震が怖かった
* 何回も余震が来るたび、トイレ、風呂は入らないようにした。怖かった。
② 片付けに苦労した
* ガラスのコップがこわれたのを片付けるのに、何日間かかかった。ガス栓をもどすのに苦労した。

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③ 外出が難しかった
* 余震や停電があるかもと思い、出かけることが出来なかった。
④ 自宅に戻れなかった
* 自宅に車イスが入れなかった。(モノが散乱して)
⑤ 精神的に不安になった
* 精神的に不安が続いて眠れなくなり、津波のテレビの画面と余震で気持ちがめげて身体もくたくたになってしまった。体調が3カ月位良くなく、とても孤独を感じた。

知的
① 地震の揺れへの恐怖、日常と違うテレビの映像などから、本人の精神状態が不安定になる
* ひとりで留守番ができなくなった。地震の恐怖でしばらく学校へ行けなくなった。
* スーパーが品薄になり、必要なものが買えなかったりした。数日、テレビのいつもの番組がはいらないのを子供が理解できず、かんしゃくを起こすことも多かった。
② 余震や交通機関の混乱で、学校を休んだり、保護者等が送迎しなければならなくなった
* 余震が続いたので、学校への送り迎えをした。学校からも安否確認の電話など一切なかった。
* 電車通学の時ホームから人があふれ1日学校を休んだ。節電のための電車が走る区間がしばらくまばらなため通勤通学に混雑があり、電車を早めに乗ったりした。
* 会社から連絡があるまで自宅待機になった。会社は障害のある人の面倒まで見られないと言われた。(老人ホームでお世話しなければいけない人が多いので)3ヶ月送迎した。大変だった。
③ その他
* 翌日精神科医へ連絡をとったら「休院」になっていた。薬が3月11日で切れてしまったので、薬局に出してもらおうとしたが医師の処方箋がないと出せないと言われ、途方にくれた。結局、主治医(内科)の先生にお願いし処方箋を出してもらい薬を切らさなくて済んだ。もし薬が切れていたらと思うと冷や汗をかいた。

重心
① 医療機器の使用が不安だった
* 入院中だったので困ることはなかったが、自宅だと医療機器などの使用など不安だったと思う。
② 介護用品や特定の食品が手に入りにくかった
* リハビリパンツが手に入りにくかったこと。数量制限があったり、販売時間が限定されていて、買いに行かれなかった等、特定の食品が買えなかったので、知人に助けてもらって手配した。
* 水不足、ケアパンツや尿取りパッドをネットで購入しているが、流通経路がマヒしたりして期日通り届かなかった。経管栄養剤の製造工場が被災したための品薄状態。電力不足のため停電になるのではないかという不安。
* 余震が多く、車椅子でエレベーターに乗るのが不安だった。

精神
① 食料や日用品などが買えなかった
* スーパーやコンビニに買い物に行った時、飲料水やパンやお米がなくて困った。
② 通勤が不便になった
* 電車のダイヤが乱れ通勤がやや不便になった。
③ 精神的に不安になった

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* 1週間ほどして、テレビやラジオの情報で不安になり、通所不可になった方、病状悪化の方多数。(通所施設職員)

支援者
* 視覚障害者からの依頼の品(単1電池・ラジオ)を探すのに数件の店舗を回ったが品物がどこにもなかった。(ガイドヘルパー)
* 翌日見廻りに来た。色々と買い物の手伝いをした。(ガイドヘルパー)
* 原発の影響に困った。事務所に泊まりながら仕事をした。衛生面と体調の確保と維持(介護事業者)
* 移動手段に困った。(ヘルパー)
* 職員が交通機関の混乱で予定通りの時間に出勤できない人もいた。バスや給食などのサービスが提供できない可能性が出たこと。(通所施設職員)
* 職員が通勤できないのに利用者がほぼ全員出席していたため活動できずに過ごした。少ない職員で利用者の安全確保ができないような状態で通所は難しいと思った。通所を行うかどうか区からの明確な指示が全くなかった。(通所施設職員)
* 職員が全員そろわない。(通勤不可能者が日々何名か出た)ガソリン・食材など業者さんの努力でどうにかなったが、日々不安。車椅子利用者は一週間ほど全員一階にて支援した。(通所施設職員)
* 通所が可能か?判断に迷った。余震が続いた為、作業するのに大丈夫なのか不安があった。利用者も怖い思いをし、不安な様子であった。(通所施設職員)
* 職場も含め世間全体が少し落ち着くまでお休みをお願いしたが(約一カ月)、ご本人が長期の休みへの理解がなかなか難しいようだった。(職場の指導員)
* 出勤できなくなった人があったため、その後しばらくの業務の運営に困った。(社会福祉協議会職員)
* 災害ボランティアセンターの立ち上げの判断が難しかった。(社会福祉協議会職員)

[4] 震災後、安否確認などのために、誰かが訪問または連絡してきましたか?(複数○可)(校正者注:グラフ 省略)

① 親戚 104人
② 友人・知人 70人
③ 誰もない 56人
④ ヘルパー 22人
⑤ 近所の人 20人
⑥ 学校 14人
⑦ 障害者防災委員会 12人
⑧ 通園・通所施設 9人
⑨ 区の職員 8人
⑩ 障害者団体 6人
⑪ 民生委員 5人 ⑫ 防災会・町会 3人 ⑬ 訪問看護師 2人 ⑭ グループホーム職員 2人
⑮ 酸素業者 1人 ⑯ その他 4人
(アンケートの選択肢番号と分類は変えて、多い順に並べた。)

 一番多いのが親戚で104人、次が友人・知人の70人である。しかし、誰からも安否確認の連絡がなかった人が56人と3番目に多い。そのうち一人暮らしなのに誰からも安否確認がなかった人が3人もいた。次に多いのが、ヘルパーで22人、ついで近所の人が20人である。日常的に障害者にかかわっている人や近くにいる人が安否確認に動いていることがわかる。民生委員から安否確認があった人が5人いる。民生委員は障害者の

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名簿は持っていないので、高齢の障害者または地域で知っている障害者のところを、自主的に安否確認を行なったものと思われる。全回答者中、70歳以上の一人暮らし、高齢者のみ世帯の人は16人いるが、民生委員が震災後安否確認に回ってきた人は3人だった。
 防災会・町会から安否確認があった人が3人いるが、この3人は非常災害時救援希望者登録制度に登録していないので、町会の人が知っている障害者のところをまわったものと思われる。非常災害時救援希望者登録制度に登録している障害者のところには、この制度で安否確認にまわってきた人はいなかった。
 一人暮らしでこの登録制度に登録している視覚障害者は「安否確認を徹底してほしい(誰も来なかったので)」と答えている。障害者防災委員会から安否確認メールを地震当日受け取った人が12人いる。「防災委員会からメールが来た時はうれしかったです。(重心)」安否確認が必要とされている。

[5] 震災を経験してどのような対策があればいいと思いますか?

① 声をかけてほしい 
* 災害時に視覚障害者はどんなに用意していても声かけがないとわからない。一声かけて欲しい。(視覚)
* 誰も来なかったので安否確認を徹底してほしい。(視覚)
* 近くに住んでいる手話通訳者から声をかけてくれればありがたい。(聴覚)
* 近くにすぐに助けてくれる人がいればよいと思う。(聴覚)
② 安否確認・連絡が取れるシステムが必要 
* 本人の居場所をすぐに知ることができるシステム・電話が通じず困った。(知的)
* 障害児・者が一人で留守宅にいる場合に誰かが安否を確認し、保護者に連絡するようなシステム。障害児・者の一時預かり。(泊れるようなところ)(知的)
* 早急に連絡を取り合いたいが出来ないので、何か良い方法は…?(重心)
* 地震の後どこからも安否の確認がなかった。区の職員、障害者防災委員会等安否確認が必要。(重心)
* 対策というより確かな情報とお互いの居場所の連絡の仕方。(視覚ヘルパー)
* 災害時においても確実に連絡がとれる方法を確保する。(学校教職員)
* 就労障害者の緊急連絡先の把握、一覧表の作成等。(通所施設職員)
* 緊急時の連絡網の工夫(職員間、家族間の連絡方法)。帰宅困難者の対策(行政と民間の役割分担と連携)。高齢者、障害者の安否確認。(社会福祉協議会職員)
③ 情報が伝わるシステムが必要 
* 中野を中心としたFM放送が欲しい。(視覚)
* 情報の保障(聴覚)
④ 非常災害時救援希望者登録制度の問題 
* 非常災害時救援希望者登録制度というのを、この用紙で知り、登録したいと思う。(知的)
* 区の手上げ方式に登録しているが、安否確認は無かった。障害者防災委員会からは夜メールがあり、心強かった。実際に大地震があったら近隣の人との助け合いが必要だと思うので、住んでいるマンションの理事会にも働きかけようと思う。作業所や、グループホームでも近隣と助け合える環境づくりが必要ではないかと思う。(知的)
⑤ 引取り方法の確立 
* 各学校において、下校への対策が違っていたので統一してほしい。(親のいない自宅への集団下校は危険)(知的)
* 学校、職場などでは、必ず保護者に引き渡すまで預って頂きたい。障害者震災時カードなどを持たせ、屋外ではどこかに集めて避難させ、預って頂いて、本人安否確認ができるような制度が良い。(知的)

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* 帰宅できない場合は学校に泊めて頂きたい。通学路等には、お巡りさんなど指示する方がいると安全だ。(知的)
* 現在通っている施設とよく話し合って、震災時の対応を確認しておきたい。(知的)
* 基本的に、家族と連絡が取れ、迎えに来られるまで、利用者は施設に待機する。(通所施設職員)
* 連絡が取れないときは、どこに迎えに行くか決めてあると安心できる。施設であれば、迎えに行くまでは、預かっていただけると助かる。(グループホーム職員)
* 迎えに保護者が来るまで預かるしかないと思っている。(学校教職員)
* 災害時の対応(連絡方法、帰宅ルート)等を事前に関係者間で確認しておく。(ジョブコーチ)
⑥ 通学・通所など外出途中の対策 
* 下校途中等の時、どうSOS出来るか心配。鉄道やバスの運転手さんなどに、対応お願いできればよいが。(知的)
* 通勤、通所途上に発災した場合の対策、GPSを活用した居場所の確認。(通所施設職員)
* 「私は知的障害者です。○○に連絡して下さい」というカードを持たせて助けを求めてはどうか。(知的)
⑦ 家族間での緊急時の確認
* 緊急避難所の確認、連絡取り合えない場合(家族間で)どのような方法を取るか普段から話し合っておく。(知的)
⑧ 通所施設などに食料・毛布など防災グッズの備蓄が必要 
* 建物に異常がなければ、通所の施設も利用者の一時避難所となり得る。障害者本人が一人でいるよりは安全ではないか。そのための必要な物品の備蓄等があればよい。(視覚ヘルパー)
* 避難所を各障害者施設とし、物資の充実をはかって欲しい。(通所施設施設長)
* 通所施設に数日宿泊できるように、必要な食料や毛布などあれば良いと思った。(知的)
* 帰宅困難な状況に備えて各通所施設での備蓄をしておくことが必要。(重心)
⑨ 障害者にあった避難所がほしい 
* 一般の方とは一緒に避難するのは困難なので、障害者と家族の避難所が必要だと思う。(重心)
* 障害を持った人に対応できる避難所の設置。医療的ケアの必要な人への応援体制の整備。(重心)
* 皆が集まる避難所には行くことが出来ない(人混みや新しい環境でさわいだり落ち着かない)ので、この様な人たちが安心して過ごせる避難所が別にあれば良い。(知的)
* 地域の避難所に障害者用の食材かスペースを準備してもらうこと。(重心)
* 障害者専用の避難施設の確保。その場所・受入有無など情報入手方法の整備。障害者用トイレの問題や、障害によっては静かな場所や個室、または多動や自閉があっても理解が得られるよう、同じ障害者同士の共有スペースが必要。(ヘルパー)
* 自閉症のような感覚過敏のある発達障害児・者や、妊婦さん、乳幼児親子などの災害弱者(一般の避難所ではどうしても気がねしてしまう人たち)が、「お互いさま」の気持で過ごせる避難所を確保してもらえたら、障害児がいても避難所に行きやすくなる。(知的)
⑩ 避難訓練やシュミレーション、避難マニュアルの作成
* 日頃の防災訓練の強化。また、外出時の避難マニュアルの作成。(通所施設職員)
⑪ 医療的ケアや薬が必要な人への対応
* 吸引器や在宅酸素などを利用しているので、電源の確保や医療機関との連携がスムーズにできると良いと思う。(重心)
* 災害時の備え。地域住民同士の連絡体制や災害時の確認。医療的ケアの必要な人のための場所や備品の確保。(特に薬や水や電源の確保)(ヘルパー)
* いつも薬を持っていなければ病院にすぐに行けなくて困ると思った。(聴覚)
* 薬がないとてんかんの重積発作になるので、薬が手に入るようにして欲しい。(重心)

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⑫ 地域とのつながり、近所の人とのコミュニケーションが大切
* ノートやボールペンをいつも持っていた方がよい。(会話が出来なかった時に必要)(聴覚)
* 日頃から防災訓練を行うことも大切だが、近所の方で一人暮らしの高齢者、障害者の人たちとコミュニケーションをとり、信頼関係を築けたらよい。(聴覚)
* 地域とのつながりの必要性を痛感。普段から結びつきが出来ていればよいがない場合、障害者は避難にも人手がたくさん必要になるため。(通所施設職員)
* 近所の人との連携や助け合いが必要。本当に大きな地震が来たら車椅子では移動が出来なくなると思うので担架などが必要。(重心)
* 町会や民生委員、事業者(ヘルパー派遣など)が連携を取り合って安否確認体制をつくる。(肢体)
⑬災害時の相談窓口の設置
* 当日の連絡や安否の確認などだけでなく、その後につづく情報の提供や相談ができる場があるとよいと思う。(重心)
* 自治体や町で相談窓口を作って頂き、個人レベルで困る人が無い様に配慮があると良い。(知的)
⑭ こころのケア
* 心のケアをして下さる所があったらいい。(知的)
⑮ 水・食料などの確保
* 3日間は生活出来る食品と水の確保(知的)
* 非常食などを準備すべき。(精神)
* みなが食料・飲料水を備蓄しておく。(精神)
⑯ 建物の耐震 
* 建物の耐震強度をしっかりしてほしい。(精神)

[6] 災害時のためにご自分で準備していることや行っていることを教えて下さい。

自宅での備蓄
* 家では保存食・水・ろうそく・使い捨てトイレなど常備。紙おむつの備蓄。
* ラジオ、携帯充電、10円玉、トイレ用ビニール袋、電池、軍手、水を使わない緊急災害用トイレキット。
* 自家発電式懐中電灯(LED)簡易トイレ、水、カセットコンロ、火を使わなくても食べられる食料などを用意している。トイレットペーパーも1包余分に在庫する。
* 家で何日間か過ごせるように物資を準備しておく。ポリタンクに水汲み置き。
* 以前から、2ℓの水50本の備蓄はある。簡易トイレの準備、非常持ち出し袋、45ℓのゴミ袋100枚以上の用意等、全て震災前と同じ状態。少しずつ、災害に強い家、家族にしていく。
* お風呂には常に水を溜めておく。飲料水、食料(2~3日分)備蓄する。欠かすことのできない薬は一週間分位余分に所持する。(本人には3日分位携帯させておく)
* オムツや薬品を自宅だけでなく施設にも数箇所に分けて保管。
* 薬と栄養剤の備蓄。吸引器は常時フル充電し、数日間使用できるようにしている。
* 常時、医療的ケアが必要なので充電式の機器や発電機を購入した。
* 呼吸器のためのバッテリー、吸引器の予備、薬、必要な麦茶、水などの備蓄。
* 医療機器用の電源確保のための無停電電源を買った。ツイッターで防災関係の情報をホローしている。
自宅の耐震
* 自宅を耐震・耐火構造にしている。

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* 家具の固定、転倒防止。
* 部屋に背の高い家具等は置かない。
避難のための準備 
* 水・お米・乾パン・チョコ・あめ・塩・砂糖・軍手・懐中電灯・ホカロン・包帯・バンドエイド・その他リュックにまとめている。
* 避難用の抱っこ紐、お薬手帳、タオル、ティッシュペーパー、ガスコンロ、ボンベも準備。
* 銀行などの通帳、現金、食べ物、服など準備する。
* 玄関に帽子、上着、長靴を置く。
* 動きやすい靴をはく。靴下、動きやすい服。
* 夜間は懐中電灯を手の届くところに置いている。必要なものをまとめてある。
* 水はベッドの下に置いてある。ラジオもベッドにくっつけてある。
* 着替えなどを入れたリュックを用意。
* 筆談用の紙とペン、災害用充電機能付ラジオ、補聴器電池も非常袋に入れてある。
* 人工肛門の取替えや、てんかん発作時の対応が避難場所では無理なので、大き目のテント、ポータブルベッド、簡易トイレの用意。人工肛門装具、紙オムツ、パットを多めに購入している。
外出時 
* 財布の中に常に「緊急連絡先」を入れてある。
* 子どもの持ち物の何かに連絡先・氏名がわかる物を携帯。
* 子供には氏名・住所・電話番号は言葉で言えるようにしている。
* 必要な物(薬・懐中電灯・飲料水など)を常に持ち歩く。
* 家族全員の防災カードを作り、持ち歩く。懐中電灯と笛を持ち歩く。
* 一人でいる時に地震に合ってしまったら、とりあえず近くの知っているところに助けを求める、又は、自宅まで一人で帰れるように話しをした。
* 現在の通学路(徒歩)の途中の知人にいざという時に預って頂けるようお願いしている。
* いつも、どこにいるかメールで確認できるようにしている。水筒を持たせている。
* スニーカーにリュック、水筒持参で通勤している。
* 本人の身元、愛の手帳を持っている事、病名・病院名・主治医・連絡先(数ヶ所)など本人の情報を一覧表のようにまとめ本人に常時持たせて、困ったときにそれを見てもらうようにしておく。
* 地下鉄を利用して通勤しているので、懐中電灯を携帯。
* かばんの中に、身分を証明するもの(家族の連絡先、メールアドレスも)あめ、水(今は重いので持たせていない)、メモ(『助けてください、障害者です。』本人には、近くの誰かにこれを見せて助けてもらいなさいとは言ってある)
* てんかんがあるので、薬が一番心配。通所施設に飲んでいる薬を置いてもらうようにした。また私(母親)もバッグに入れて持ち歩いている。
* ガイドヘルパー中、懐中電灯、笛、ラジオ、水、アメなど持って歩く。
連絡方法
* 家族の集合場所を2か所決め確認している。
* 家族で連絡方法や避難所の確認。
* 本人に住所録を持たせている。
* 171の災害伝言板の利用。
* 交番などに相談すること。

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グループホームでの準備
* 常備薬(1週間分)、水、食べ物(保存食)、電灯、ヘルメット等。
* 町内の地区会長さんに寮に暮らしている方を知っていただく為に防災訓練に参加できるようお願いしている。普段から近隣の方々と交流を持つよう心掛けている。
学校での準備
* 学校としてはマニュアルの確認と生徒が在校している時の事態に対応できるように常に意識している。
* 災害時に必要な物品を備蓄しておく。どのような行動をとるか、どこが避難場所なのかを確認しておく。
通所施設での準備
* 防災訓練・緊急時の連絡手段の確認など。
* 災害用の利用者の薬3日分を預かっている。
* 利用者と一緒の外出時に、集合場所やどのように行動するかを他職員と事前に確認する。
* 家族への緊急連絡を一斉メールで行うことにした。(希望者のみ)
* 仮設の利用者用の水2リットル×6本、トイレ用品。トイレットペーパー随時40ロール、タオル30枚。
会社での準備
* 会社で非常時の連絡方法を確立させた。本人達には緊急カードを作成し持たせた。勉強会で、地震が起きた時にどうすればいいかを教えた。(職場と外で)どんな気持ちだったか、家庭とどのようなことを話し合ったか等も尋ねてみた。
* とりあえず社員の携帯のメールアドレスを自分の携帯に登録した。
* 朝のミーティングを利用しての読み合わせ説明会を週一回の割合で実施中。各支店に「震災時帰宅支援マップ」「都バス路線案内」「ヘルメット」の配備済み。
* 帰宅困難な場合を想定し、毛布、避難食、水を職場で用意した。
* 社員の保護に関する基本方針を定め、操業中に災害が発生した場合の対処方針を予め保護者等にアナウンスをした。
* 緊急連絡網の再整備。今回の地震を教訓に災害マニュアルの見直し。
* 避難持ち出し袋を各個人に貸与している。

[7] その他、感想、意見、要望などお書きください。

① 安否確認、声をかけてほしい
* ちょっとの声かけが欲しい。外の状況(瓦が落ちそうなど)を知らせて欲しい。(視覚)
* やはり、すぐにかけつけてくれる人がいればいい。(視覚)
* 震災後の保護者会で、安否確認で冷蔵庫に障害者の情報を入れて、それで第三者に確認してもらうという話があった。そういう制度があればと思う。(知的)
② 非常災害時救援希望者登録制度が役に立っていない
* 中野区の防災登録について平成15年に登録しているが全く意味がない制度。地域に情報が全くいっていない。シールをマンションの内廊下のドアに貼っているだけで、金と人の無駄である。(重心)
* 手挙げ方式の要救護者の登録をしたが、登録をしたきりなので、どうなっているのか知りたい。(重心)
③ 障害者防災委員会やヘルパー等からの連絡が心強い
* 当日、防災委員会から「メール」にて安否の連絡を頂きありがとうございました。当日は偶然、障害者本人が家族と自宅にいたがメールを頂いた時、我が子を気にかけて下さっている方がいるという安心感を持てた。(知的)
* 防災委員会からメールが来た時はうれしかった。(重心)
* その日、ヘルパーさんからTELを頂き、とても心強くありがたく思った。避難も出来ず、避難場所へ行ってもトイレなど無理

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なことが多く、火災も心配で今も不安だ。(肢体)
* 事業所も電話を利用者さんに掛けていると思うが、さらに心のケアとして安心コールをすると良いと思う。(視覚ヘルパー)
④ 登下校中、帰宅中の場合は不安
* 移動途中が一番心配である。一般の人全てが認識してくれる障害者の為のカードがあればと思う。それを見せれば誰でも公的機関などに本人を連れて行ってくれて、安全確保、引き渡し迄の預り等をしてくれる制度があればと思う。(知的)
* 一人で交通機関を使って、通学、通勤している障害者本人が震災時どうなるのか心配。(知的)
⑤ 災害時の対応を決めておきたい
* 子供一人で外出している時だったら、など今後の事を改めて決めておかなければいけない。(知的)
⑥ 筆談ボードを持ち歩く
* 情報障害は、こういうとき、とても不安になるが、耳マークを付け、筆談ボードを持ち歩くことで、周りの人に助けていただけることに気がついた。(聴覚)
⑦ 人口呼吸器や吸引器等医療機器の利用者のための対応を
* 停電への対応が気になる。近隣の開業医の方々が協力してくださると安心。(重心)
* 避難所に医療機器の備蓄があると助かる。(重心)
* 薬を一回でも服薬しないと、てんかんの重積発作に繋がるので、薬を入手出来る方法を知っておきたい。人工肛門装具、紙オムツ、パットを入手出来る方法を知っておきたい。(重心)
⑧ 一般の避難所に行けない人への対応を
* 避難所に車椅子トイレが欲しい。自宅で復旧を待つ場合、救援物資を届けて頂きたい。(肢体)
* 自閉症児で、体育館での避難生活は困難。集団から離れている場合にも配給が受けられると助かる。(知的)
* 障害のある人も利用しやすい避難所になって欲しい。(知的)
* 出来れば一般の方との避難場所でない所の避難場所の設定を望む。(重心)
* 障害者に特化した避難所設置や運営は避けるべき。(知的の通所施設職員)
⑨ グループホームに日中も人の配置を
* 大震災及び台風のような突発的な事象が起きた時、就労先・作業所等より早退しなくてはならない事態が起きる。その際、グループホームに日中支援員が誰もいない状況があっては利用者にとっていく場がなく大変危険な状態に陥いる。グループホームには夜間のみならず、日中も必ず日中支援員が常駐するよう緊急に措置をとっていただきたい。(知的)
⑩ 震災後、出勤できない職員があり施設運営が大変だった
* 電車が止まってしまい職員が通勤できない中、利用者の通所はあった。職員が何人通勤できるか判らない状態では利用者の安全確保も難しい。(通所施設職員)
⑪ 日頃から障害への理解を
* 地域の方々と時々話し合うべきだ。(視覚)
* 一般の方に日頃から障害を知っていただけたら良い。(知的)
⑫ ボランティアなど災害時の支援システムを
* 交通機関の混乱や計画停電等の影響でヘルパーさん確保や交代が困難だった。例えば、ボランティアなど災害時にヘルプするシステムのようなものがほしい。(ヘルパー)
⑬ 障害のある方が混乱しないように支援を
* 震災の後、各機関で避難マニュアルやIDカードの作成を行っている。企業から渡されたり、支援機関から、地域からと色々な所からの情報で障害のある方が、混乱しないように支援していきたいと感じた。(ジョブコーチ)
* 対災害、防災ということでいえば横でつながるネットワークを人ごと、地域ごとに設計することが有効だろう。(社会福祉協議会職員)

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⑭ その他
* 家や建物に閉じ込められた時にどうしたら良いか教えてほしい。(視覚)
* 障害者に笛を配ってほしい。(聴覚)
* 心のケアなどもっと気軽に受けられる様にして頂けると良い。(知的)

3.アンケート結果から見えた課題

[1] 障害別の課題

 視覚障害者は中野区視覚障害者福祉協会、聴覚障害者は中野区聴覚障害者福祉協会の会員から主に回答を得ている。学齢期の回答者はおらず、視覚障害者と聴覚障害者とも60歳以上の回答者が7割以上を占め、在宅率も7割以上と高く、その回答からは、在宅の高齢の障害者の問題が主に見える。
 一方、知的障害者は愛育会会員の保護者を中心に回答を得ている。愛育会は特別支援学校や通所施設に通う保護者が多く会員になっているので、障害児・者が10歳未満と10代の回答者が41%を占め、50歳代までの回答者を合わせると93%にのぼる。また、99%が日中どこかに通っており、その回答からは、通学や通所、通勤における災害時の障害児・者の問題が主に見える。
 以下は、アンケートから見えてきた障害別の主な課題である。

1)安全確認が困難な視覚障害者
●安全確認の困難さ
 震災後に困ったこととしてあげられているのが、「安全の確認」である。交通機関の状況のみならず、自宅周辺の状態や、更には自宅の屋根瓦は大丈夫かなど、見えない視覚障害者にとっては、より狭い地域の情報を提供してくれる放送や、近隣の方々の目の情報を得られるか否かが重要な課題。
●安否確認の問題
 回答者24人中、一人暮らしが12人と50%。そのうち、65歳以上が9人おり、最高齢は95歳で、一人暮らし高齢者は回答者中38%。一人暮らし高齢者で震災時だれもいなくて1人だった人が5人。(70歳代4人・80歳代1人)そのうち、70代の1人には後で民生委員が訪問している。安否確認にだれも来なかった人が4人。(30歳代・50歳代・70歳代・80歳代)80歳代の人は一人暮らしであったが、安否確認はだれからもなかったそうだ。民生委員が安否確認に回ってきた人は全回答者中5人いた。そのうち視覚障害者が4人だった。(60歳代1人・70歳代2人・80歳代1人)
 目の見える家族と同居世帯であっても、災害発生時に家族が仕事などで外出していた場合には、視覚障害者単独で災害発生に応じなければならないという状況が生じる。
●電話連絡が取れない
 メール使用者はごく僅か。電話が命の視覚障害者にとって、当日の電話連絡の不具合は、多くの視覚障害者に不安と混乱を招いた。また、ガイドヘルパーにとっても同様で、家族連絡のみならず、業務遂行にも支障を生じた。
●交通機関の混乱で歩行外出が厳しい状況
 交通機関の混乱は、歩行外出が苦手な視覚障害者にとってはより厳しい状況を招いた。仕事先や学校、外出先から帰宅できず困難を生じた例が多い。ガイドヘルパーも同様で、何とか電話連絡が取れたものの、利用者の家まで行けないという状況があった。

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●水・食料品の確保困難
 当日及び数日後まで、スーパー・コンビニなどから飲料水、食料品が姿を消し、買い求めるために並ぶ列に、うまく並べない視覚障害者にとっては、苦しい状況を提示した。
●ガイドヘルパーが一緒で心強かった
 震災時ヘルパーと一緒だった人が5人。近所の方がすぐさま声をかけてくれて嬉しかった。ガイドヘルパーと一緒だったので安心だったなど、ひとりではないという状態が、いかに心丈夫か、その後の対応にも有効(室内の散乱物の片付けなど)であることが、アンケートから浮かび上がった。
●「声をかけてほしい」「安否確認にきてほしい」が強い要望
* ちょっとの声かけが欲しい。外の状況(瓦が落ちそうなど)を知らせて欲しい。
* 災害時に視覚障害者はどんなに用意していても声をかけて下さらないとわからない。必ず一声かけて欲しい。
* 誰も来なかったので、安否確認を徹底してほしい。

2)孤立しがちな聴覚障害者
●安否確認の問題
 回答者26人中、一人暮らしが7人。そのうち65歳以上が6人。最高齢が82歳。そのうち震災時だれもいなくて1人だった人が4人で、4人とも70歳代だった。安否確認にだれも来なかった人は4人。4人とも70歳代で、そのうち1人は一人暮らしだった。孤立を防ぐために、安否確認が必要である。
●コミュニケーションが困難
 70歳代の人は、自宅で1人の時地震にあい、外に逃げたが、近隣とのコミュニケーションがとれず、伝えたくても伝えられずに困っていた。家の中で危険な状況にいても助けを呼ぶことや、外に出ても近隣の人に声をかけることが困難である。近くに住んでいる手話通訳者から声をかけてほしいとの意見がある。
●情報の保障が課題
 メールがとれない。放送が聞こえない。情報をとったり会話をやりとりできる携帯メールが地震直後はつながらず困った。電話ができず、放送が聞こえないのが一番不便である。
●手話通訳者と一緒で助かった
 地震の時スマイルなかのにいて、手話通訳者と一緒だった人が3人いた。電車が止まったことなど、手話通訳者から情報を聞くことができ助かった。障害者防災委員会から連絡が来た人が2人いた。
●コミュニケーションが大切
 近所の聴覚障害者とコミュニケーションをとる、ノートや筆談ボードを持ち歩くという提案がある。
* ノートやボールペンをいつも持っていた方がよい。(会話が出来なかった時に必要)
* 近所の方で一人暮らしの高齢者、障害者の人たちとコミュニケーションをとり、信頼関係を築けたらよい。

3)帰宅をめぐって混乱した知的障害児・者
 知的障害児・者の99%が学校や通所施設、会社に通っており、保護者が学校や通所施設などと連絡が取れず、安否確認に時間がかかった。帰宅方法をめぐって混乱し、保護者と本人が会うまでの不安、大変さがあった。
●学校や通所施設、職場と保護者との連絡が困難で、引き取りや帰宅困難で混乱した
 学校との連絡が取れず、保護者はどのように動いて良いかわからなかった。保護者が迎えにくるまで、学校や通所施設などで子どもを預かっていたところもあった。教師や通所施設の職員が自宅まで送っていったり、会社に泊めるところもあった。災害時の対応が決まっていなくて混乱した。災害時の対応を決めておく必要がある。
* 外出していたため、学校に迎えに行けたのは深夜12時になった。
* はじめ職場から会社に泊めると電話がきたが、所長が車で送ってくれた。渋滞で帰宅は11時過ぎだった。

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* 両親とも仕事で、子どもは学童クラブで過ごしていた。学童に迎えに行けたのは4:40明け方近くだった。
* 通所施設から帰宅して居ることは家主に連絡してわかった。保護者が午前3時過ぎに帰るまで夕食もできずに一人でいた。
●登下校中、帰宅中の場合は不安
 下校時間と地震が重なり、一人で学校から帰る途中、震災にあった知的障害児が5人いた。知的障害児者は、普段と状況が違う場合、一人で状況変化がわかって対応することはとても難しい。そのため一人でいる場合は一刻も早く保護する必要がある。
* 移動途中が一番心配である。一般の人全てが認識してくれる障害者の為のカードがあればと思う。それを見せれば誰でも公的機関などに本人を連れて行ってくれて、安全確保、引き渡し迄の預り等をしてくれる制度があればと思う。
* 「私は知的障害者です。○○に連絡して下さい」というカードを持たせて助けを求めるのはどうか。
●学校や通所施設、会社側は帰宅させるか待機させるか、宿泊させるか判断に迷った。
 学校や通所施設、会社は、本人を保護者が迎えにくるまで待機させるか、自宅まで送っていくか、宿泊させるか、判断に迷っていた。待機させたり、送って行ったり、宿泊させたり、様々な対応がとられた。保護者と連絡が取れなかった場合どうするかなど、あらかじめ取り決めがされていない所が多かった。グループホームの職員は、利用者の行き先がバラバラなので連絡や迎えが大変だった。地震後、学校や施設、会社では災害時の対応マニュアル作りが進んでいる。
* 自主退所させるか、待機かの判断が難しかった。家族が来られないため、本人を自宅まで送った。(通所施設職員)
* 学校から保護者への連絡が取れず、迎えに来たのは2名だけだった。残りは担任が自宅まで送った。
* 夜まで保護者が迎えに来れない場合、施設には宿泊の備品がない。
* 学校、職場などでは、必ず保護者に引き渡す迄、預って頂きたい。災害時の対応等を事前に関係者間で確認しておく。
* 会社として、緊急時の連絡網整備。外出している際の集合場所などを決めておく。
●知的障害の子どもが通う特別支援学校、特別支援学級は、通常自宅から遠い。そのため、バスや電車を利用することが多い。迎えが必要な兄弟がいる場合、大変だった。
* 兄弟を家に残してもう一人を迎えに行くことが不安だった。
* 兄弟が違う学校なので、両方とも連絡がつきそれぞれを迎えに行くまで時間がかかった。
●地震そのものの理解が難しく、余震に怯え、パニックをおこす。
* 落ち着かずウロウロしていた。制止が利かなくなるおそれがある。
●いつもと違うことに適応できない。理解できない。
 自閉症の人はこの傾向が強い。経験したことが無い練習していないことはすぐにできない特徴がある。
* 電車が止まったので、予定していた歯医者に行けなかった。予定が変わったことを受け入れられなくて動揺した。

4)エレベーターや電車が止まり影響を受けた肢体障害者
●エレベーターが止り困った
* スマイル5階から1階まで、会館にいた人達に車イスごと階段をおろしてもらい帰宅。
* 団地の5階まで、住民達では車イスごと持ち上げるのは困難で、担架に乗って帰宅。
* エレベーターが止まったので5階まで負ぶって上がった。車イスは1階に置いたままだったので室内での移動ができず大変だった。今後のために抱っこ紐を用意した。
●電車が止まりヘルパーが来られなくて困った
* 夜のヘルパーが電車不通のため来られなかった。
●家族と連絡が取れず困った
* 全介助が必要だが、家族と連絡が取れなかった。電車がとまり夜中まで1人きりになってしまった。
●一般の避難所に行けない人への対応を

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* 避難所に車椅子トイレが欲しい。自宅で復旧を待つ場合、救援物資を届けて頂きたい。

5)電源が必要な医療機器を使用のため停電が心配だった医療的ケアが必要な障害者・難病者
●呼吸器使用のため停電が一番心配だった
* 停電への対応が気になる。近隣の開業医の方々が協力してくださると安心。(重複)
* 避難所に医療機器の備蓄があると助かる。(重複)
●介護用品や特定の食品が手に入りにくかった
* 水不足、ケアパンツや尿取りパッドをネットで購入しているが、流通経路がマヒしたりして期日通りに届かなかった。経管栄養剤の製造工場が被災したための品薄状態。電力不足のため停電になるのではないかという不安。
* 薬がないとてんかんの重積発作になるので、薬が手に入るようにして欲しい。
●安否確認が必要
* 地震の後どこからも安否の確認がなかった。区の職員、障害者防災委員会等安否確認が必要。
* 障害者防災委員会からメールが来た時はうれしかった。(重複)

6)不安になった精神障害者
 グループホーム入居者が6人で回答者13人の半数近いる。家族と同居が5人で、一人暮らしは2人であった。地震時に通所施設にいた人は8人、自宅に居た人は3人、電車やバスの中にいた人が1人で、地震の時にひとりだった人は3人いた。1人だったと近所の人と一緒だったとダブって回答している人がいるが、自宅で地震にあった時、部屋から出て近所の人と会ったのだと思われる。誰からも安否確認の連絡がないと答えた人が4人いた。
●地震の時どうしてよいかわからなかった
●食料や日用品などが買えなかった
 困ったこととして、食料や日用品に関する意見が多かった。日頃から自発的に水や食料を備蓄しておくことや、被災後早めに水や食料を確保したり、いつもの店で品切れになった時に商品を探してあちこちのお店を回ったりすることが難しいのだと考えられる。
* 買い物に行った時、飲料水やパンやお米がなくて困った。
* トイレットペーパー、ティッシュが不足した。
●精神的に不安になった
* テレビやラジオの情報で不安になり、通所不可になった方、病状悪化の方多数。(支援者)

[2]アンケートから見えた共通の課題

1)安否確認の問題
 今回の震災は日中だったので、学校や通所施設、職場などいつも通っている場所で、教師や施設職員、同僚などだれかと一緒にいた人が54%と半数以上いたが、家族とは離れていた。一方、自宅などで一人でいた人は27人で11%いた。一人で自宅に居た人の中には外出中の家族との連絡が取れず、不安な状況にいた人もいる。日中の災害時の特徴は家族が別々で離れた状態にあったことだ。加えて携帯電話やメールが使えず連絡が取れなかったこと、電車が止まったことが、混乱に拍車をかけた。「連絡が取れず困った」「安否確認が困難だった」という意見が多く見られる。
 1点目の問題は、誰からも連絡がなかった人が56人と全体の22%おり3番目に多かったこと。ひとりで

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自宅で地震にあい、その後もだれからも安否確認がなかった高齢の障害者もいた。2点目に、一人暮らしなのに誰からも連絡がなかった人が3人いたこと。3点目に、要援護者救援登録制度に登録している障害者のところに、この制度で安否確認に回ってきた人がいなかったこと。この3点の問題は、障害者の安否確認が不安な状況にあることを示している。
 アンケートによると、安否確認の連絡で一番多かったのは、親戚、ついで友人・知人である。近所の人やヘルパーがついで多く、日頃親しい人、関わりのある人が連絡し、かけつけていることがわかる。ついで多いのが障害者防災委員会からのメールであった。安心したとの声があり、障害者団体からの安否確認は重要であることがわかる。アンケートでは、安否確認について主に以下のような意見があった。
* 近所の人とのコミュニケーションが大切。近隣と助け合える環境づくりが必要。
* 中野区の災害時救援登録制度が役に立っていない。
* ヘルパーや障害者防災委員会などからの連絡に安心できた。
* 通所施設、会社による緊急連絡網の整備、災害マニュアルの見直し
 区の要援護者救援登録制度を効果あるものに見直していくとともに、近隣と助け合える環境づくり、学校や通所施設、ヘルパー事業所、勤務先などによる安否確認のシステムづくり、障害者団体による安否確認の仕組みづくりなど、多層で多様な安否確認の仕組みづくりが必要とされている。

2)引取り方法の問題
 地震の時に自宅外にいた障害者は、回答者235人中200人で79%の人が自宅以外の場所にいた。そして、地震直後には携帯電話もメールもつながらず、家族等との安否確認に困難を極めた。特に知的障害児者の引き取り方法をめぐって混乱した。下校途中で、道でひとりだった知的障害児が5人いたことは、この問題の困難さを表している。アンケートでは主に以下のような問題が多く出されている。
* 学校、通所施設、勤務先との連絡が困難で、引き取り方法や帰宅の対応が混乱した。
* 通所施設や会社は帰宅させるか待機させるか判断に迷った。
* グループホームから利用者に連絡が取れず困った。
* 登下校、通勤、帰宅中の場合が不安。
教師や通所施設職員、会社の人が自宅まで送っていったケース、保護者から迎えがあるまで学校や通所施設、会社で待機させたケース。学校や会社等に宿泊させたケースなど、対応が定まっていなくて、家族が迎えに行ったら、本人がひとりで自宅に向かっていたなど、危うくすれちがいが起きそうになったケースもあった。引き取りをめぐる意見が以下のように多かった。引き取り方法の確立が必要とされてい。
* 各学校において下校の対応を統一してほしい。
* 必ず保護者に引き渡すまで預かってほしい。
* 帰宅できない場合は泊めてほしい。
* 災害時の対応を事前に関係者間で確認しておく。
* 通所、通学途上では救援カードを持たせるなどの対策をする。

3)避難所の問題
震災を経験しての対策で、障害者が安心して過ごせる避難所の要望が多かった。障害者専用の避難所の設置の要望がある一方で、障害者に特化した避難所設置は避けるべきとの意見もあった。障害者だけに特化することがいいことかどうかは議論が必要だが、要は障害があっても気兼ねなく避難できる避難所が共通に求められている。以下のような意見があった。
* 避難所に車椅子トイレが欲しい。
* 障害のある人も利用しやすい避難所になって欲しい。

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* 出来れば一般の方との避難場所でない所の避難場所の設定を望む。
* 障害者に特化した避難所設置や運営は避けるべき。
* 地域の避難所に障害者用の食材かスペースを準備してほしい。
* 発達障害児・者や乳幼児親子などの災害弱者が過ごせる避難所の確保。
「通所施設を避難所として物資の備蓄を」との意見もある。家族が迎えに来るまで通所施設で夜遅くまで過ごした人がいる。宿泊に対応できるように毛布などの備蓄が必要である。また、日頃通いなれた通所施設は気持ちも安心していることができる。
* 通所の施設も利用者の一時避難所となる。そのための必要な物品の備蓄等があればよい。
* 避難所を各障害者施設とし、物資の充実をはかって欲しい。
避難所に行けない人への支援物資の支給も忘れてはならない。
* 自宅で復旧を待つ場合、救援物資を届けて頂きたい。
* 自閉症児であり、体育館での避難生活は困難。集団から離れている場合にも配給が受けられるようになると助かる。

4. 各障害者団体からの提言

NPO法人 中野区視覚障害者福祉協会
○ 最大の災害対策は近隣住民との日常的な交流
 外出(歩行)、視覚による状況把握、情報取得が苦手な視覚障害者にとって、最大の災害対策は、近隣住民との日常的な交流である。視覚障害者理解が進み対応も慣れているガイドヘルパーも、災害時に対応できない状態に追い込まれてしまう以上、また、家族も発生時にそばにいるとは限らない以上、近隣住民との関係こそが、生死を分かつといっても過言ではない。

中野区聴覚障害者福祉協会
○ 避難所での手話通訳配置のシステム形成
 中野区とNPO中野区聴覚障害者情報活動センターで契約を結び、震災後の避難所での手話通訳配置についてマニュアルを作成する。
○ 避難所での視覚情報発信のシステム形成
 同じく、水の配給などの情報を視覚化するための、マニュアルを作成。

中野区肢体不自由児者父母の会
○ 災害時の安否確認の支援
○ 避難所内のバリアフリーおよび障害者(車イス)用トイレの充実
○ 医療的ケア障害児者の避難場所の充実
○ 各々の通所中の災害時の通所施設の避難場所の設定および防災グッズの確保、住・食の確保の充実。

中野区障和会(中途身体障害者の会)
○ 現在の学校施設の避難所は、手すりもなくバリアフリーではない。障害者には使いにくいので、介助できるボランティアを配置してほしい。
○ 段差などをなくす避難所のバリアフリー化をしてほしい。
○ 車イス用の仮設トイレを校庭などにたくさん設置してほしい。
○ 高齢者、障害者の食事と水を確保してほしい。

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○ 避難してくる人を取りまとめて、障害者もいられるように避難所の混雑など整理してくれる、コーディネーターを担う人が必要。
○ 障和会は高齢者が多いが、これから先、自分自身がしっかりしていきたい。

中野区愛育会(知的障害児・者 親の会)
○ 通勤・通学時等、一人でいる時に被災した場合、知的障害児・者を早く発見し保護者に引き渡すことができるシステム形成
 中野区、各障害者団体、障害児・者が通勤・通学している企業、施設、学校などが通報された情報を共有するネットワークづくりが必要。
○ 中野区災害時救援登録制度を見直し、区と障害者団体が連携して安否確認が徹底できるシステムを作る
 知的障害がある人は、周りに知らせることや逃げることが難しい。保護者(支援者含む)がケガなどして動けない場合、孤立した知的障害児・者が救出され、安全が確保されるようにする。防災対策は障害者の意見を取り入れ、障害福祉分野と防災分野が連携をし見直して欲しい。
○ 知的障害のある人が過ごせるような避難所の環境づくり
 自閉症の人は特に感覚過敏で、環境の変化に極端に弱い特性がある。障害のある人も居られる避難所を。避難所以外の障害者施設等にも緊急災害時のための整備に助成を。
○ 知的障害児・者への理解を広める。
 知的障害を知らないことが社会の無理解・偏見につながる。日頃からの交流を通して近隣住民に理解してもらうことが、災害時には大きな力になる。地域の防災訓練の時には障害者への声かけをマニュアルに加えてほしい。

NPO法人 ねこの手(障害者の自立支援団体)
○『自分が出来ることから、はじめよう!』
 災害が起きる前に、また被災した後において、心身に障害を負っていても、自分のため、家族のため、他人のために、自ら、できることを考え、行動していこう!
○『災害時障害者支援体制をつくりましょう!』
 交通や通信が遮断されても、安否確認、避難誘導、避難後の介助について充分な支援が行えるよう、区や障害者団体、自立支援協議会等が中心になって障害者災害時対応マニュアルを作成し、町会、社会福祉協議会などの機関とともに、役割分担や手順を検討する。
○『バリアフリーを前提に!』
 一次避難所や仮設住宅にも、車イスの人が使用できるトイレや段差解消などバリアフリーを前提に。帰宅困難でも利用できる、ユニバーサルデザインのトイレやAED、車イスの貸し出し場所、避難場所、安全な避難経路などの、災害時バリアフリーマップ作りを。

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5. 個人の報告

■ 私の東北関東大震災 R・O(身体障害)

 私は東京都中野区在中の脳性まひの障害を持った大学生です。三鷹市にあるR大学から戻る途中、2011年3月11日14時46分三鷹駅で地震に会いました。駅構内にいたのですが、三鷹駅の駅案内板が大きく揺れていました。自分の身体も改札の扉も全部揺れていました。

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一旦改札に入って待機しているとそのうち外へ出るように誘導がありました。エレベーターは全く動かなくて、駅員さん6人で120㎏以上の思い電動車いすを駅の外へ降ろしてくれました。
 「ねこの手」のヘルパーさんと徒歩で中野区の自宅へ向かいました。ヘルパーのRさんは、以前会社で社内配達をしていた地区だというので、道に詳しくて助かりました。途中で電動車いすのバッテリー残量が少なくなり、坂道以外はRさんが重い車いすを押してくれました。途中で「ねこの手」の事務所に連絡を取りました。この日はちょうど「ねこの手」の懇親会が予定されていました。ねこの手からは、「気を付けて来て下さい」という連絡がRさんの携帯電話に連絡が来たので、Rさんと中野区はあまり被害がないのかと話をしました。
 とにかく情報がなく、電気屋さんの店頭に置かれているテレビを探しました。コンビニにも寄りましたが、被害の全体状況がよくわからなかったので、食料も買わずにおきました。電話が繋がらなくて、母のことが心配でした。私は帰宅途中でトイレを利用したくても、そこには身体障碍者用トイレがなくて困りました。中野区の大和町までなんとか帰ってきた所で、私がいつも利用している介護タクシーMの駐車場の前を通ったら、Mのおじさんが車から降りてきて「家まで帰れないの? 乗って行きな!」と声をかけてくれました。その時やっとほっとできました。本当にうれしくてこれで母に会えると思いました。ここまでだいたい4時間かかりました。自宅は中野のマンション13階です。マンションについても13階までエレベーターで上がれるかが心配でした。まずRさんに自宅に上がってもらいました。エレベーターは動いていましたが、自宅は地震で落ちた物が散乱して、とても車いすが入れる状態ではないということでした。
 私は、とりあえずもう一度Mタクシーに乗って、自宅近くの沼袋地域センターに避難しました。受付の人に、ここに避難・泊めてほしいと言ったら、ここには泊まることはできないということでした。代わりに、近くの中学校を教えられました。ですが体育館の床に寝てしまうと朝起こせないので困ってしまいました。母は涙目でした。ねこの手からEさんとNさんが来てくれて、事務所に泊まりなと言ってくれて本当にほっとしました。母は自宅に戻り連絡の取れて無かった父を待つことにしました。
 私は「ねこの手」の事務所に電動車いすを押してもらい向かいました。NさんとEさんと冷凍食品やおでんで夕食を食べて12時過ぎに寝ました。事務所が寒いのと余震の時逃げやすいので、昼間着ていた服のまま寝ました。寝はしたものの大学の友人のことが心配で眠れませんでした。翌朝すぐに友人のAさん、Hさん、Mさんに安否確認のメールを送りました。Aさんからはすぐに返信がありました。しかし、Hさん、Mさんとは連絡が取れませんでした。私はかなり心配しました。
 カップラーメンで朝食をすまして、しばらくすると事務所にヘルパーのTさんが来てくれました。その後、ヘルパーのKさんも来てくれ、11時にはNさんに自宅の様子を見に行ってもらいました。母からは自宅はまだ帰れる状態では無いのでどこか安全な所に泊めてもらいなさいと電話が事務所にありました。この時私は北区王子の障害者スポーツセンターの宿泊棟を考えたりしましたが、結局ねこの手のAさんのお宅に泊まらせて頂くことになり、ホッとしました。途中でねこの手のTさんに牛丼を買ってもらって家から持ってきたインスタントのみそ汁を飲みながら、食事を取りました。
 Aさんのお宅に泊まる際の介助者を探していました。ねこの手の元ヘルパーのOさんが一緒に泊まってくれることになりました。Oさんは前日看護学校の卒業式から7時間かけて中野の自宅に帰ったということでした。Aさんのお宅について、すぐにEさんとNさんが、私の家から持ってきた衣服に着替えさせてくれました。1日以上、同じ服を着ていたのでとても気持ちよかったです。僕が落ち着くとAさんは外出されました。Aさんが戻られたのは8時過ぎでした。夕食はAさんが宅配ピザを取って下さいました。9時過ぎに父親から携帯電話に連絡がありました。母は隣のお店の駐車場にいるから心配ないという連絡でした。すごく安心しました。10時45分頃寝ました。前日はカーペットで、あまりよく眠れませんでしたが、ベッドだったのでよく眠れて少し元気を回復しました。ベッドで眠れていない母のことを考えると少し申し訳ない気がしました。
 朝ご飯は、AさんのヘルパーのKさんに高菜チャーハンを作ってもらいました。Aさんは起きていませんでした。8時になり、交代でTさんが来てAさんのことを起こしに行きました。Aさんは起きられると私に「よく眠れた?」と声をかけてくださりうれしかったです。9時になり、私のヘルパーのOさんと交代でEさんが来てくれました。風呂に入いろうと言われてすごく嬉しかったし、おどろきました。風呂は自宅でしか入れないと思い込んでいたからです。Aさんのお宅にはシャワーチャアがあり、それに乗ってシャワーをあびました。お風呂にいれてくれたEさんとTさんの思いがとてもうれしかったです。お風呂に入って少しするとEさんは私の自宅の片付けを手伝いに行ってくれました。夕方頃Eさんから電話が来てなんとか車いすが入れる場所ができたというので、夕方5時ころNさんが迎えに来てくれました。そして、西武線に乗り自宅に戻った瞬間すごくほっとしました。

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 私は、今回ねこの手のヘルパーさんたちには本当に感謝の気持ちとうれしさでいっぱいです。本当にありがとうございました。そして今までそれほど現実感をもって考えていなかった、(災害弱者)の避難について否応なく考えざるをえなくなりました。それは、障害のある人ではなく、高齢者にもいえることではないかと考えています。地域での友人・知人とのつながりの大切さを改めて考えさせられる体験でした。


■ 2011年3月11日をふりかえって K・K(視覚障害)

 渋谷区M町5階に有る職場の自分の座席にて14時46分、今まで体験した事がない揺れを体験しました。揺れ初めはごうっと言う音とロッカーの中の物ががたがたと鳴りだしました。机の下に潜った方がよさそうだと思い入り込んだ時に一番強い揺れを経験しました。PCが一台机から落下した音がしました。揺れが収まったので携帯のワンセグで情報を確認し関東が震源地で無い事を知りました。私は中学3年の息子と二人暮らしです。1時間ぐらいすると学校から迎えに来るようにと電話連絡がありました。携帯からは電話もメールも送受信ができない状態でした。鉄道が止まっていると言うのが分かっていましたので、まずは就業時間17時45分終了までは動く事をやめました。その内にJRが本日中の運転再開を見送った事を知り、私鉄や地下鉄もそれに順ずるだろうと考え、徒歩かタクシー、バスでの移動しかないだろうと思いました。終業時間後同僚にお願いしタクシーを止めてもらおうと山手通りまで出ましたが40分粘るも捕まらず断念しました。タクシーが止まったとしても息子の学校が有る久我山までを考えると捕まらなかったのが良かったのかもしれません。しかたがないので息子を迎えに行くのはまずは諦め自宅に戻る事を選択しました。同僚は松戸まで徒歩で帰ると言っていました。お願いすれば送ってくれたのかもしれませんが、その言葉は飲み込みました。もう一つの選択は職場に泊まる事でしたが次の日が休みの土曜日でしたから、私の選択肢からは排除しました。やはり障害者は気を使う環境にいるよりも少し不便やリスクが有っても安心できる場を望むのかもしれません。
 20時過ぎ渋谷から東中野まで山手通りを歩き出しました。初めての道ですからそんなに早く歩けません。また同じように歩いて帰る人が多くなかなか歩き難い状況でした。歩き出してからは学校には連絡できませんでしたが、寄宿舎の施設もある学校なのでまずは家に帰る事が連絡を取りやすくする一番の近道と考え不安はありましたが歩く事に専念しました。途中山手通りである事を数人に尋ねながら歩きました。何人かの方から声をかけてもらいました。歩き出してから30分ぐらいでしょうか? 3人目の方が同じ方向の方で目黒から板橋まで行く方で、一緒に歩いて下さる事になりました。目黒で板前をされている方で女子高生の娘さんがいる男性の方でした。途中青梅街道を左に曲がれば近道ができるのに少し遠回りして下さいました。私の住んでいるマンション前で握手をして別れました。
 一人で歩いたら多分5時間はかかったでしょう。その方のおかげで2時間程度で帰ってこれました。自宅の固定電話からは学校にも連絡でき、息子は一晩寄宿舎に泊まる事になり安心しました。私は自宅の落下物を片付けお腹が減ったので行きつけの居酒屋に連絡しましたら営業していましたので、午前2時過ぎまで飲み自宅に帰り眠りました。飲み友もいたし、後からきた飲み友と会え恐怖心と不安が軽減できました。この経験から思う事は震源地では無く上からの落下物が通りに落ちていなかった事、交通事故や火災で迂回すると言う事態に巻き込まれなかった事等が単独で帰って来れた勝因で、そうでなければ無謀な事だったのかもしれないと言う事です。それでも何があるか分からない時代ですから、自分で判断し後悔しない選択肢を選べたらと考えています。

■ 学齢期のT君の場合 
10歳代 知的障害 家族と同居 中野区要援護者登録制度は震災後に登録

 3.11の地震は、いろいろな事をあらためて考えるきっかけとなりました。この日私は、地下鉄で帰宅途中、息子は学校下校途中でした。息子は区内の特別支援学級の中学に通っています。クラスでただひとり電車通学です。この日にかぎって、先生の障害部会により、通常級の生徒さんよりも一時間早く14時半下校でした。はじめ、地下鉄での地震は、大きな地震があったことがわかりませんでした。電車が急に停車して、最寄り駅まで到着したら二度目の大きな揺れがあり、車内アナウンスで、今まで経験の無い規模の地震ではないかと感じました。

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それまでは、電車は待っていればいずれ動くのではと思っていました。乗客はほとんど地上にでてしまい、携帯もはじめはメールが届きましたがすぐに繋がらなくなりました。学校メールには生徒の無事メールが届きましたが、支援級の情報はないので、学校に問い合わせしてみることにしました。ふとみると、九段下駅はホームの中に公衆電話があり、幸いほとんどのお客さんが地上に出てしまったので、公衆電話は数人で何度も並び直し必要な場所にかけることができました。学校に二度電話して確認していただいたところ、地震直後介助の先生が駅までかけつけてくださり、電車に乗る前の息子を発見し、学校に連れ戻してくださっていました。その時の安堵は今でも忘れません。その後は「必ずお迎えにいきます」と伝えて私の旅は始まりました。ほとんどが歩きで寒くなってからはバスで、途中必要なものを購入しながら、11時半にようやく到着しました。子供は先生方と過ごし、夕食もいただき、保健室で寝ていました。学校の先生方の対処に深く感謝し、動き始めた電車で帰宅しました。長い一日でした。今回、電車に乗ってなかったこと、先生が探してくださったことが幸いしましたが、もし乗っていて災害にあったらと家族で考え、本人と話をしました。身元がわかる生徒手帳には詳しく連絡先を記入し、何かあったら提示すること。電車で災害にあったら駅員さんに聞く、パニック状態のときには、みんな逃げるところへついていくなど、あらゆる想定しなければならないと思いました。いずれにしても障害児(者)が一人で行動しているときには、まわりの健常者の方の助けが必要です。普段の通学路でも顔見知りを、ご近所でも息子のことを知っていただくことが大切であることをあらためて感じました。電車やバスなどの災害マニュアルにも、困っている障害者援護も配慮していただけると助かります。


■ Aさんの場合
30歳代 知的障害 家族と同居 特例子会社 通勤時間1時間余り 交通機関2回乗り換え

 3月11日は、新たな会社の入社日で事業団の支援員(ジョブコーチ)が一緒でした。地震の後電話が通じず夜になって事業団の方から、「今夜は泊まらせる」とか「大江戸線が動き出したから帰す」など連絡がありました。結局、満員電車を乗り継いで12日午前1時半頃、支援員と一緒に近くの駅まで帰って来たので迎えに行きました。支援員と一緒だったので途中のコンビニで何かを買って食べることもできました。今回の地震は、会社にいる時間で、また支援員が一緒だったので助かりました。その後しばらくの間、地下鉄が間引き運転をしていて大混雑していたので途中まで母が送りました。
 地震後、会社ではすぐに個人緊急連絡カードを作成し、こちらからも本人の氏名、住所、自宅と携帯の電話番号、写真、血液型、投薬の有無、自宅から最寄り駅までの地図、家族の連絡先(メールアドレスも)など提出しました。個人情報なので、家族が了承後、同じビル内の系列会社にも保管して頂き、非常時には一緒に見守ってもらうということです。また、会社は食品関係で1週間位の食料の備蓄があるので、今後はこのような時、社員は会社に泊まることになりました。会社側がすぐ、次に備えていろいろ対処してくださっているので、とてもありがたいし感謝しています。
 通勤途中で地震が起きた場合が一番心配です。翌日からかばんの中に、氏名・住所・年齢・血液型・会社の電話番号・家族の連絡先(メールアドレスも)など、裏面には「助けてください。障害者です」と書いたものを入れました。防災センターで売っている笛やアメ、水なども持たせています。非常時は周りの人も自分のことで精一杯だと思いますが、本人には近くの誰かにこの紙を見せて助けてもらいなさいと言っています。通勤途中で地震などが起きた場合、自分で判断が難しい障害者にも判るように配慮した政策を作ってほしい。


■ Bさんの場合
10歳代 知的障害 家族と同居 企業就労 通勤時間約1時間 交通機関2回乗り換え
 
 母親の仕事は不定期で、地震の当日は休みで自宅にいました。職場と連絡が取れたのは、地震の2時間後でした。仕事はすぐ中止し休憩室で待機しているとのことで、迎えに行くためにタクシーを探しましたが、空車はなく捕まえるのにさらに30分かかりました。途中で、長女の通う高校に寄り、長女をタクシーに乗せ、会社に向いました。車中で会社に電話を入れましたが繋がりませんでした。会社に到着したのは

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約3時間後の午後8時10分で、その間、本人は上着を着てバッグを抱えてじっと待っていた様子でした。会社から本人には、地震の為に仕事が中止になったと説明があったようでしたが、きちんと理解は出来ていなかったようで、母親の顔を見るなり「ごめんなさい」と謝りました。本人は何か悪いことをしたので帰されると思ったようです。同じタクシーでさらに約2時間半かかり午後10時30分帰宅。料金は、約2万1千円掛かりました。長時間、同じタクシーの運転手さんが付き合ってくれたのは幸運でした。
 その後、仕事は地震や電車のダイヤが落ち着くまでということで、一週間休みになり本人は喜んでいました。地震や津波についてはニュース等で見て、何か大変なことが起きたと思っても、それに対して恐怖や悲しいという感情は出ていませんでした。
 しかし、3.11の地震を経験し、今後、通勤途中で地震が起きる事をとても心配しています。地震後、会社とお互いのメールアドレスを交換、会社の24時間対応の電話番号を教えてもらっています。家庭では、通勤途中で何かあった場合は、駅員さんに助けを求めるように言い聞かせています。また、障害者福祉事業団から配布された「緊急連絡カード」に本人の情報を記入して、常に持たせてあります。

■ Cさんの場合
40歳代 知的障害 家族と同居 通勤時間約40分 交通機関2回乗り換え

 地震があった時、本人は職場内(ビルの地下1階)のトイレの中にいました。揺れがおさまってトイレから出るとフロアには誰もいなくてびっくりして1階に上がりました。
 地震の揺れにより自宅室内でガラスが割れたりしたため片付けていると、会社から、午後5時頃電話があり、迎えに来るよう言われました。すぐ家を出ましたがタクシーがつかまらず30分くらい歩いてからバスに乗りました。渋滞で1時間半かかりようやくバスの終点駅に着きました。そこからの私鉄も動いていないのでタクシーに乗ろうとしましたが長い列で無理だと思い、会社に電話したところ、本人を駅まで車で送ってくれたので助かりました。会えたのは21時頃でした。帰りはまた1時間くらいバスに乗り、30分歩き、家に着いたのは23時頃でした。本人も母(70代)も疲れました。
 会社から、職場は介護施設なのでお世話をする人が多く、障害のある職員の面倒までは見られないと言われ、連絡があるまで1週間ほど自宅待機になりました。その後交通機関などが心配だから、送迎するように言われ、しばらく母が送迎しました。はじめの1ヶ月は会社まで、その後は電車を乗り継いだ駅までです。日常、同年齢の人に比べてよく歩いているので何とかできましたが、この間とても大変でした。
 地震当日は電話がつながらず安否確認できなかったことが、困りました。今後どのようにしたら良いか考えています。


■ Dさんの場合
20歳代 知的障害 家族と同居 通勤時間約40分 交通機関2回乗り換え

 会社は電車を乗り継いで40分くらいの場所で、普段は一人で通勤しています。3月11日の地震の時、母は外出先へ向う途中でした。電車が止まってしまったので本人を会社まで迎えに行こうと思い会社に電話をしましたがつながらず、ようやく5時ごろ公衆電話から連絡できました。会社には母が迎えに行くまで待たせてもらえるよう頼んで、増発されていたバスに乗りやっと会社に着いたら、本人は待ちくたびれて誰にも言わず会社を出てしまっていました。あわてていつも利用している私鉄の駅までさがしに行くと、駅の構内はものすごい人でしたが、幸い、改札口近くにいた赤いジャンパーの息子を見つけることができました。後で本人になぜ会社から出たのかと聞くと、『お母さんが遅いから心配で、駅までさがしに来た』と言いました。帰りもバスに乗り帰宅は8時を過ぎていました。
 会社にいるときであれば会社の人の指示通りにすること、一人では絶対行動しないこと、通勤途上でも絶対一人で勝手に行動しないことなどを何回も話し合いました。その後も、本人は余震があるたびに怖がり、すぐにヘルメットをかぶったりテーブルの下に入ったりしました。これ自体は良い事かもしれませんが、自宅ではない場所で、パニックを起こさないか心配になりました。
 震災を経験して思うことは、親は我が子がどこにいるのかが一番知りたい事です。携帯が通じて欲しいと切実に思います。それと、

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「私は障害者です。○○に連絡して下さい」というようなものを持たせて助けを求めるのはどうかなどと考えたりしています。防災グッズも今までより強化して、すぐに持ち出せる所に置きました。会社から歩いて帰る練習も必要だと思いました。
 その後、秋の台風の時も同じような体験をしました。携帯が通じたので地震の時より不安はありませんでした。しかし、電車が止まってしまい帰れなくなり、暴風雨の中を会社の人がバス停まで送ってバスに乗せてくれました。本人には、もし何かで電車が止まってしまった時は、会社から離れず周りの人と一緒に行動するよう再度確認しました。

■ Eさんの場合
30歳代 知的障害 家族と同居 通所施設・全介助

 3月11日は、地震で台所の食器が割れ、破片を少し片付けてから作業所に車で行きました。既に道路は渋滞しており公共交通も止まっていたので徒歩で帰宅している人も出始めていました。17時過ぎに作業所に着き、自宅に戻ったのは20時半で、幸い夫もその後帰宅しました。
 一番困った事は、システムキッチンの戸棚のロックがかからず、食器が大量に割れたことです。スリッパをはかない息子がガラスを踏んだら大事になるので、父親と寝室にいてもらい、母は朝4時まで掃除をしていました。震災時は保護者が帰宅困難者だったり、途中が火災だったりすることも考えられます。通所している場所で、宿泊させて頂ける準備があると安心できます。
 以前から、2ℓの水50本の備蓄はありました。簡易トイレの準備、非常用持ち出し袋、45ℓのゴミ袋100枚以上の用意等、すべて、震災前と同じ状態です。少しずつ災害に強い家、家族にしていきます。

■ Fさんの場合
30歳代 知的障害 家族と同居 通所施設利用

 3月11日は通所施設を休み、午前中通院し、帰宅してから遅い昼食をとり昼寝させたところでした。長い揺れに飛び起き、家の中をウロウロしたので、ベッドに坐らせ母も一緒にいました。一緒にいないと動き回ってしまうため、強く「坐って!!」と制しましたが、もっとひどい揺れや、室内のものが倒れたりしたら、パニックになり制止ができなくなる可能性があります。
 その後も数日間は神経質になり怖がっていました。また今でも(10月)テレビのテロップやほんの少しの震動でも敏感に反応し、揺れていない時でも、時々「ゆれてる!」と言っています。親の私も、今もめまいの薬を服用しています。
 日中は通所施設にいるので施設内にいればまずは安心ですが、第二次避難所なのに備蓄品がないので、揃えてほしい。また地域ごとに障害者用の避難所を指定してほしい。震災後、改めて道路を見たとき、電線の多いこと!電信柱が倒れたら道は歩けない。少なくする方法はないのでしょうか?中野区は住宅も密集しているので逃げられないのではないか、避難所まで行かれるのか心配です。

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資料 1
アンケート用紙

中野区の障害児・者への東日本大震災による影響についてのアンケート

このアンケートは中野区区民公益活動政策助成事業によって実施しています。

 3月11日東日本大震災により、中野区も震度5強の揺れがあり、障害のある方々も様々に不安な状況にいらしたことと思います。そこで、障害者防災委員会として、中野区における震災時の障害児・者の状況と課題を把握するために、アンケートを行うことにいたしました。アンケートの結果を報告集にまとめ、今後、当会で作成する防災マニュアルや、行政等への災害時要援護者対策に反映させていきます。お忙しいところ申し訳ありませんが、以下のアンケートにご協力いただきますように、よろしくお願いいたします。9月末までにアンケートをお渡しした人や団体までお戻しくださるようお願いいたします。

あてはまるところを○で囲んでください(複数可)。また、記述が必要なところには恐れ入りますがお書きください。ご本人が記述できない場合は、介助の方などが代筆していただけるとありがたいです。

[1] 記入者のフェイスシート
1. ご記入いただいた方 ① 障害者本人(介助者代筆も含む) ② 保護者(   歳代)
③ 支援者

2. 「①障害者本人」または「②保護者」と回答された方におうかがいします。保護者の方は障害児(者)本人の状態を記入してください。
① 年齢 ( )才(2011年3月11日現在) ② 性別 a 男 b 女
③ 障害等の種別 a 肢体 b 聴覚 c 視覚 d 内部 e 知的 f 発達 g 精神(複数○可)h 難病 i 高次脳機能 j その他( )
④ 手帳の有無 a 手帳なし b 手帳あり
身体障害者手帳( 種 級)愛の手帳( 度) 精神障害者保健福祉手帳( 級)
⑤ 支援の有無 a 一部介助 b 全介助 c ヘルパー利用 d 電動車いす e 手動車いす(複数○可) f ガイドヘルパー利用 g 点字使用  h 手話通訳利用
i 要約筆記利用 j その他( )
⑥ 居住状況 a 一人暮らし b 家族と同居 c グループホーム d 施設入所
⑦ 日中の状況 a 通園 b 通学 c 通所 d 職場 e 通院 f 在宅
⑧ 中野区非常災害時救援希望者登録制度 a 登録している b 登録していない

3. 「③支援者」と回答された方におうかがいします。その内容を教えてください。
① 保育園・幼稚園・学校教職員 ②通園施設職員 ③ヘルパー ④ 手話通訳・要約筆記者 ⑤ 区職員 ⑥ 福祉施設職員 (a 通所施設 b 入所施設 c グループホーム) ⑦医療従事者 ⑧ボランティア ⑨ その他( )

[2] 3月11日震災当日の状況についておうかがいします。
1. 地震が起きた時、どこに居ましたか?
① 屋内 a 自宅 b グループホーム c 入所施設 d 通園施設 e 通所施設 f 保育園・幼稚園・学校 g 職場 h その他( )
② 屋外 a 道 b 電車やバスの中 c 駅 d その他( )
③ 屋内にいた時何階にいましたか?( 階)

2. 地震が起きた時、障害のある人のそばにだれか居ましたか?(複数○可)
① だれも居なくて1人 ② 家族 ③ 職場の同僚 ④友人 ⑤ 近所の人 ⑥ ヘルパー
⑦ 保育園・幼稚園・学校教職員 ⑧ 通園施設職員 ⑨ 福祉施設職員 ⑩ ガイドヘルパー
⑪ 手話通訳・要約筆記者⑫ 医療従事者⑬ ボランティア ⑭ その他( )

3. 地震の直後どうしましたか?また、困ったことは何でしたか?(連絡が取れなかった、帰宅できなかったなど、当日の状況や困ったことをお書きください。

[3] 翌日や数日後、困ったことは何でしたか?

[4] 震災後、安否確認などのために、誰かが訪問または連絡してきましたか?(複数○可)
① 親戚 ② 友人・知人 ③ 近所の人 ④ 民生委員 ⑤ 保育園・幼稚園・学校 ⑥ ヘルパー ⑦ 通園・通所施設 ⑧ 防災会・町会 ⑨ 医療機関 ⑩ 障害者防災委員会
⑪ 区の職員 ⑫ボランティア ⑬誰もない ⑭その他( )

[5] 震災を経験して、どのような対策があればいいと思いますか?

[6] 災害時のためにご自分で準備していることや行っていることを教えてください。

[7] その他、感想、意見、要望などお書きください。

ご協力ありがとうございました。締め切りは10月30日です。
中野区障害者防災委員会 中野区中野5-68-7スマイルなかの 5F聴覚研修室内

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資料2
本文のグラフの元データの表(校正者注:表 省略)

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3.11東日本大震災アンケート その他の記述分

地震の直後どうしましたか?困ったことは何でしたか?(年齢の年代・被災場所・一緒に居た人)
視覚
*ヘルパーさんが居て下さったので力強かった。(90代・道・ヘルパー)
*診療が受けられなく徒歩で帰宅。(80代・屋内7階・ガイド)
*今後の時にどうすればよいか迷います。いざという時はすばやく行動できればよいが。(70代・自宅・家族)
*何も考えられなかった。(80代・屋内・家族)
*ヘルメットを着用、非常袋を背負い、靴をはいて玄関の戸を開け揺れが収まるのを待った。(80代・自宅・家族)
*食器、茶だんすがずれ、食器の片づけが大変。(60代・自宅・家族)
聴覚
*近隣の人が支えてくれないため娘と連絡をとった。困ったことはスマイルとの連絡方法の確保。(70代・自宅・家族)
*何も連絡がありません・隣の人も誰も助けに来てくれませんでした。(70代・自宅・ひとり)
*中野駅から自宅まで歩いて帰りました。主人とメールは取れなかったために不安でした。主人は深夜12時ころに帰りました。(60代・屋内・手話通訳者)
*近くの小学校に避難した。バスが動かなかったので歩いて帰った。家に帰ったが家族が居なくて不安だった。鍵を忘れて家に入れず家族を待った。弟とかと連絡が取れなくて心配だった。(70代・屋内・友人)
*通訳者がいたので様子がわかった。しばらくして余震がおさまったので歩いて帰った(夜7時ころ)。(80代・屋内・手話通訳者)
*御茶ノ水の病院にいた。交通機関が停止して、どうやって帰宅すればよいのか、御茶ノ水駅の駅員にきいても正確な情報が得られずとても困った。後で病院や公的施設で宿泊受け入れしていたことを知った。(60代・病院・医療従事者)
*机の脇の棚が壊れ、中身が飛び出て散乱した。重いプリンターが30cm以上動いていたのでびっくりです。交通機関が止まり、会社から自宅まで歩いて2時間半かけて帰宅しました。携帯で家族の連絡は入ったのですが、こちらからの連絡が届かなかったようで、心配をかけてしまいました。(40代・職場・同僚)
*ヨガを教えていてゆるゆるしていた最中だったので、気が付かなかった。仲間が気付き、ここは免震構造のビルの揺れ方だなと感じ、「このビルは大丈夫。外に出ない方が安全だな。」と判断した。仲間達に廊下に避難誘導し、「手すりに掴まってしゃがもう。バタバタいう防火扉を押さえて。」と頼んだ。余震の合間は、部屋に戻り、一息つき、余震が来た時は再度廊下に誘導した。発生から夕方4時半まで、余震の合間は、「こうしててもしようがないしお茶でも飲もっか。」「自分が揺れてればいいと思えばいいのよ〜。」←地震のときにしていたヨガのポーズやゆるゆるする動きをし、皆で冗談を言いながら過ごし、余震がおさまったあと聴覚研修室に行き、聞こえない仲間のところに様子を見に行き、いらした手話通訳者のFさんに交通機関や地震の被害状況を伝えてもらった。(70代)
*地震のときは夫と一緒でしたので壊れた食器などが散乱していましたので、ケガしないように注意しました。(50代・自宅・家族)
*妻と一緒にいた。ゆれがすごくて柱につかまっていた。妻はあわててドアを開けて外に逃げようとしたが、動けなかった。(70代・自宅・家族)
*起きてすぐはそのままの形で動かなかったですが、いつもの地震と違って長いなと思いました。余震が多いのでもしかしたら最初の地震より大きいのが来るんじゃないかと思いました。(40代・職場・同僚)
肢体
*立ち上がり戸を開けようと思ったのですが、歩けなく、つかまる所がなく、押入れの戸をあけて中段の板につかまった。立ち上がっても動けなかった。(60代・自宅3階・ひとり)
*本人は入院中だったため安全・安心なところにいたが、私が帰宅途中で家族と連絡がとれたのは夕方になってからだった。交通機関がマヒし、付き添いのため病院に戻るのに3時間以上かかった。(10代、病院)
*居間の机の下にとっさに潜り込んだが、出られなくなった。2階にいた母を呼んで、2人でがんばって出るのに30分かかった。親戚や友人と連絡とれなかった。CDケースなどが落ちて割れ、床を片づけるのに半日かかった。(40代・自宅・家族)
*帰宅に困った。ヘルパーさんと歩いて帰った。(20代・駅・ヘルパー)
重心
*巡回バスで遅れて帰宅。電話連絡つかず通所施設で困ったようだ。 (40代、通所施設)
*通所施設から通常通り送迎バスにて帰宅。自宅はマンション2階のためエレベーターがストップ。お父さんに負ぶさって部屋に入りました。(30代、通所施設3階)
*通所バスで普通に帰ってきました。会館ではエレベーターが止まってしまい、職員が下までおろすのに大変だった。(40代、通所施設)
*マンション住まいでエレベーターが止まり、兄弟に抱っこされて自宅に帰ることはできたが、車イスは運べずエレベーター再始動してから自宅に戻した。(20代、通所施設)
*じっとしていた。(30代、自宅2階)
*ベッド上でふとんをかぶって横になっていた。(30代・自宅・家族)
*家族と連絡が取れなかった。エレベーターが3日近く止まってしまった。(10歳未満・自宅)
*スクールバスが出たので帰ることができたが、バスが出なかったら公共交通機関もストップしてしまったので、帰宅できないと思う。その時どのような対応をしたら良いのか。学校など避難場所がある場所にいるとは限らないので困ると思う。東京は電気もガスも水道もライフラインが使用できたので、特に困ることはなかったが、ライフラインがストップしたら、どのように介護しながら避難生活を送れるのか不安。(10代・学校)
*ヘルパーさんと机の下に入った。(20代・自宅・ヘルパー)
精神
*作業所からグループホームに帰ったとき、自分の部屋だけ内側のドア(おりたたみ)がはずれ、本だなの一番上の段がすべて落下。電子レンジが冷蔵庫の上から落下し、冷蔵庫、床に傷がついてしまった。
*テレビをつけて母と一緒にざぶとんをかぶっていました。
*ティッシュが無くなったり食べるものが少なくなったりしました。
*テーブルの下に入る様、体を低くする様 大声を出した。玄関のドアを開けた。NHKをつけた。利用者の帰宅確認が出来なかった。
知的
[通園・通学]
*直後、テレビをつけた。家族や親戚に連絡が取れなかった。他の家族は帰宅できなかった。(自宅・家族)
*たまたま学習教室に行く日だったので、又、親も出先で、地震に合ったのですぐ学校に迎えに行き、引きとった。地震直後だったので、比較的混乱に巻き込まれずに家路に着くことができた。(知的10代・学校)
*恐怖のあまり、しばらく動くことができませんでした。家族と一緒でしたので、当日困ったことはありませんでした。余震のたびに怖がり、トラウマになったようです。(10歳未満・自宅・家族)
*母の私といっしょに自転車に乗っていたが、地震という非常事態が理解できないので頭を守る、伏せる、机の下にもぐるなどの行動を素直にやってくれない。(10代・道・家族)
*学校から帰る途中でした。特に事故にまきこまれることもなく、家に着いてからは祖父と過ごしていました。母帰宅まで連絡はとれませんでした。(父はその日帰宅できませんでした。)(10代・道・ひとり)
*直後帰宅途中の駅付近(沼袋)にいました。学校、特別支援級だけ早帰りでしたので、普通級の生徒は学校。学級の先生の判断により介助の先生が駅に行って、学校に戻され助かりました。(10代・道・ひとり)
*通常は学校から待ち合わせ場所まで1人で下校するが、たまたま当日は私も子供の下校経路を逆から歩いていた。ちょうど顔がお互い確認できたところで地震に合ったが、揺れそのものよりも周囲の建物から出てきた人たちの悲鳴におどろいていた。無事に会えたことを学校に伝えようとしたが、電話がつながらず困った。(10歳未満・道・ひとり)
*当日電話がつながらなく、娘(高2)はすぐに帰宅。次男(小4)を学校へ引き取りに行き本人(中3)を次に迎えに行ったが、すでに担任の先生と一緒に帰宅して居た。今回長男の迎えに間に合わなかったので、次回は長男(本人)を先に迎えに行くことを学んだ。母ひとりしか自宅に居なかったので、このような事になった。(10代・学校・教師)
*PHSだったせいか、学校にはすぐつながった。下校していたら、と思うと

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こわい(バス通学なので)(10代・学校・教師)
*学校にいた、まわりに先生方etc.助けて下さる方がいて助けてくださった。(10代・学校・教師)
*幸い学校にいた為、親が迎えに行くまで待っていました。帰宅途中であったら、とても心配な状況でした。(10代・学校・教師)
*学校に電話(2・3回で通じた)して、すぐに車で迎えにいった。早かったので、それ程渋滞に巻き込まれず帰宅できた。(10代・学校・教師)
*学校からの連絡で本人を引取りに行った。交通手段は知人が車を出して下さり(時間はかかったが)迎えに行くことができ良かった。
*スクールバスが運行されなくなったため、徒歩で学校まで迎えに行き、徒歩で帰宅した。学校からのメールが受けられず、こちらからも連絡が取れなかったため、バスポイントで1時間待っていた。(10代・学校・教師)
*たまたま療育で学校にお迎えに行く途中のバスの中で地震。学校に引き取りということになったので、一番にお迎えができた。そして、たまたま車でお迎えに来ていたクラスメイトの保護者の方に家まで送って頂き、幸運続きでした。高1のお姉ちゃんが部活休みで家に一人で留守番していたのが、かわいそうだった。(10代・学校・教師)
*連絡が取れず安否がわからなかった。職場から学校までの交通手段が絶たれ、学校へ迎えに行くまで時間がかかった。(代わりの迎えを頼むにも、電話が使えず依頼できるまで時間がかかった)(10代・学校・教師)
*連絡がとれなかったが、自転車で移動していたので、学校に迎えに行きました。家の近くの生徒さんもいっしょに連れて帰ろうかと思ったが、余震が心配、その家族とも連絡がとれていないのでやめました。本人の不安がとても大きかった。必死に耐えているようでした。(10代・学校・教師)
*ヘルパーと学校から学童へ行って、学童で親が迎えに来るまで待機だったので大丈夫でした。(下校途中だったので、ヘルパーと揺れがおさまるまで歩道にしゃがんでいたそうです。)(10代・道・ヘルパー)
*兄弟をつれて若宮クラブに迎えに行きました。通う場所が離れていると身柄の確保がとても大変であると思いました。(10代・学童・職員)
*小学校にて授業中(当時小学6年)だったので、担任の先生とクラスメイトといっしょに校庭に避難した。(10代・学校・教師)
*電話連絡はとれず電車は動いてなかった。バスが動いていたのでバスを利用し、職場から学童クラブに迎えに行った。(10歳未満・学童・職員)
*電話がつながらなかったので迎えが遅くなってしまった。電話連絡を待たずに学校に迎えに行けばよかったと思う。子供が不安になるから。非常時には迎えにこられる人は早くきて(勝手に)職員の負担を減らした方がいいと思う。(10代・学校・教師)
*いる場所がわかっていたので、すぐ迎えに行くことができました。電話連絡ができなかったのは少し困りました。兄弟がちがう場所にいると、それぞれと連絡を取るのに時間がかかります。(10代・児童館・職員)
*学校と連絡がとれなかった。タクシーがなかなかつかまらなかった。バスも混んでいて時がかかった。(このような状態のバスに本人を乗せることができなかった)(10代・学校・教師)
*連絡が取れませんでした。夕方私のところに「迎えに来て」とメールが来て迎えに行きましたが、渋滞で大変でした。(10代・学校・教師)
*携帯電話が使えず公衆電話を利用して学校に連絡した。子どものお迎えでは、バスやタクシーに乗れず徒歩で学校まで行った。帰宅も徒歩と一部バスに乗る事ができたが、時間がかかった。(10代・学校・教師)
*学校の下校後、他の教室に行くことになっていた(ヘルパー同行で)親もその間に車で用事をしている最中、地震に遭いすぐヘルパーさんに中止の連絡をし、親が学校に迎えに行き引き取った。(10代・学校・教師)
*地震一回目の後、落ち着いてからタクシーを利用して帰宅。2波がタクシー内であった。タイミング良くタクシーに乗れたが、道路は乗れない人がたくさんいた。(10代・屋内・家族)
*普段は自主登下校しているのですが、ちょうど学校に用事があり、たまたま一緒に下校しようとした時だったので、本当にタイミングが良かったと思いました。逆に、自主下校させていたら時間帯的に下校途中だったので不安でした。(10代・学校・家族)
*地震発生時は子供と一緒に学校を出て下校し始めたところだったので、学校横の公園に避難しました。20分程様子を見て、余震がないようだったので帰りました。帰宅後は余震が続いたので家の外に避難したり中に戻ったりを繰り返しました。(10代・道・家族)
*その日はちょうど熱を出し本人は祖母と一緒に家にいました。しかし、祖母とも携帯、家電がなかなかつながらず、連絡がとれるまでに時間がかかったり、安否の確認がすぐにできなかった。(10代・自宅・家族)
*学校からの帰り道でした。金曜日で学校からの持ち帰り道具の中に体操着袋があったので、それを頭にのせしゃがんだ。(10代・道・家族)
*学校を出て家に帰る途中でした。歯医者を予約していたので、急がせるため、たまたま迎えに行き、母と一緒でした。公園脇の歩道を歩いている時に揺れ始めたので、公園に入り、座らせて揺れがおさまるのを待ちました。その後、すぐに家に帰りました。地震があったこと自体には動揺はなかったのですが、電車が止まり、歯医者に行けなくなったこと(急な予定変更)に動揺していました。(10代・道・家族)
[通所]
*当日娘は通所施設に居りました。すぐ電話をしましたが、通じませんでした。まず迎えに行かなくてはと思い、しばらく様子を見て迎えに行き、無事に帰宅しました。娘はヘルメットをかぶり、いすに坐っていました。先生、職員の方々にはお世話になった。(40代・通所施設・職員)
*外出中でした。公衆電話ボックスの前は行列でした。(携帯電話なし)そこで交番に行き、娘が福祉作業所で働いている旨を伝え、電話を借りることができました。(40代・通所施設・職員)
*連絡が取れなく、通所施設の近所の友人に頼み、連絡して迎えに行く。(40代・通所施設・職員)
*作業所の机の下に入りました。(本人)家族が車できました。(本人)作業所から自宅が近かったのですが、生活寮へ送って来られました。(家族)(40代・通所施設・職員)
*ニュース等で、東京は特に被害がないようだったので、通所施設に徒歩でひとりで通っている子を普通に家で帰宅するのを待っていた。通所施設の職員が送ってきてくれたので、迎えに行った方が良かったのだと、後で思った。もう少し大きい地震の経験があったので、被害の割に大騒ぎなのに驚いた。(20代・通所施設・職員)
*なかなか連絡は取れなかったが、作業所に皆と一緒にいて、その後自宅近くに同じ作業所の利用者の保護者が迎えに来て、一緒に帰って来た。(20代・通所施設・職員)
*外出先から作業所に迎えに行った。途中バスを利用できたので、通常より約1時間遅れで到着できた。携帯はすぐにつながらなくなり、作業所とは連絡はとれなかった。作業所から歩いて家に戻った。余震が続き本人も不安げで落着かなかった。(20代・通所施設・職員)
*余震が収まって、とび散った食器の破片を少し片付けてから、息子の迎えに車で向かいました。既に青梅街道は、渋滞でした。公共交通も止まっていたので徒歩帰宅者も出始めていました。17:20作業所に着き、自宅に戻ったのは20:30でした。(10代・通所施設・職員)
*携帯は繋がりませんでした。自転車で帰宅できたのでお迎えの時間には間に合いましたが玄関に鏡が倒れて散乱したので先に片付けてから迎えにいきました。(20代・通所施設・職員)
*割に早めに電話連絡が取れましたので通所バスで帰宅させていいただくようにお願いできて安心致しました。(重複50代・通所施設・職員)
*指導員の方の指示により外に出た。地震がおさまった後、作業所からの連絡を受け保護者の私が迎えに行った。(40代・通所施設・職員)
*作業所から電話連絡がありましたが、保護者が迎えに行けなかったので作業所の先生がいっしょに送って来て下さった。
*通所施設へ迎えに行ったが、揺れがおさまるまで動けなかった。連れて帰るときに大きな地震がきたらどうしようととても不安だった。父親は帰宅できなかったので、不安だった。(20代・通所施設・職員)
*作業所との連絡が取れなかったこと、家と作業所が中野の北と南で、電車で通っていたので、近くの職場にいた父親とやっと連絡がとれて、2人で2時間かけて歩いて帰宅した。連絡のとれない間の不安があった。(20代・通所施設・職員)
*連絡がとれなかったが、至急引き取りと思い作業所に向かいました。無事に連れて帰りましたが、母が遠くに行っていたりとか、子が他の場所にいたらどうなっていたか不安です。(20代・通所施設・職員)
*本人は会話も電話もできないので、帰宅途中で起こった時心配です。当日はいつも通りのバスに乗り帰宅時間も通常通りでした。幸いに両親とも自宅にいたのでよかったですが、電車を利用して出かけていたら、帰れなくて本当に困ったと思います。(30代・ボーリング・職員)
*作業所と連絡がとれなかった。外出していたので帰宅に時間がかかり終業時間までに自宅に帰れず、作業所から自宅にひとりで帰らないか心配だった。(20代・屋内・職員)
*作業所から遅くても良いから迎えに来るよう電話があり、他区在住の一人暮らしの88歳の母の家へも行くため、車で行った。母は落着いていたので帰宅したが、途中歩いて帰る人が多くて驚いた。会社員の娘は4時間歩いて帰宅した。(20代・通所施設・職員)

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*作業所からお迎えの電話がありましたが、しばらく様子を見て終了時間まで待って、一人で帰るようにお願いしました。母と同居でたまたま母のほうも介護施設にデイで行っていましたので、二人だけでしたら少し心配もありましたが、無事に終わりました。近所に住んでいるので、すぐ駆けつけることはできますが、想定外のことが起きることが心配です。(60代・通所施設・職員)
*作業所の職員、同僚と一緒にボーリング場から作業所に戻りました。寮の代替さんが、作業所に迎えに来てくださり、途中から寮の世話人と交代に寮に帰りました。(50代・ボーリング・職員)
*当日通院の予定があったが、交通機関混乱のため翌日に延期した。医院に電話にて「通院できない旨、翌日の予約をする」連絡をとろうとしたが、不通になり翌日に連絡をすることにした。(40代・自宅・家族)
[職場]
*会社と連絡がとれない。(電話 携帯が通じず)交通が止まりどのようになるか!(帰るに帰れない状態)このような状況の中、会社に泊まる事になった場合対応出来るのかどうか不安と心配。(幸いにも夕方、会社からご連絡をいただく事が出来、会社の状況、本人の様子がうかがえ、又本人と直接話をすることが出来ほっとした)(20代・職場・同僚)
*電車不通の為徒歩で帰宅(約40分)(50代・職場・同僚)
*職場より帰宅するよう指示があり徒歩で15分くらいなので歩いて帰宅しました。(30代・職場・同僚)
*会社から連絡があり、すぐに迎えに出ましたが、タクシーにも乗れず、東中野から中野まで歩き、バスで練馬まで1時間半かかり、練馬から富士見台まで交通の便が無く困りました。でも会社で練馬まで送ってくれたので助かりました。家に着いたのは23時頃でした。(40代・職場・同僚)
*職場の社員の人の指示に従いました。(職場・同僚)
*怖くて母と外に出たが父がいないので心配だった(20代・自宅・家族)
支援者 (職種・被災場所)
*一人住まいの利用者さんに直ぐ電話した。大丈夫とのお声お聞きしましたので安心した。(ガイドヘルパー・自宅)
*帰宅ルートを探すのに苦労した。(その他・屋内)
*職場の方々と一緒に移動した。帰宅の電車が動くかをテレビのニュースで確認する為にずるずる夜遅くなった。(ガイドヘルパー・職場)
*入院中で家族と連絡が取れなかった。自宅がどうなっているかも分からない状況だった。(ガイドヘルパー・病院)
*通所施設の施設長をしておりますが、当日はたまたま作業公開といって学園祭のような行事を行っていましたので、利用者さんの保護者の方も見えられていて、保護者のいる方は一緒に帰宅、そうでない人は職員が同伴して家まで送ることとなった。通常の保護者がいない日であれば全員を帰宅させることは難しい。(通所施設長、通所施設)
*電車が動かず歩いて帰宅した。バザーがその日は行われていた為、ご協力して下さったご家族の方は利用者さんと帰宅をし、その他の方は指導員が送り、送迎バスは利用しなかった。初めての体験でびっくりしたが、落ち着いて外に全員で避難した。(通所施設職員、通所施設1階)
*近くの公園に避難。ご家族の方がいらしたので皆それぞれに帰宅できた。(通所施設職員、通所施設一階)
*12階建て団地でエレベーターがとまり、みんなで声かけし階段でおり訓練をしておりましたので大丈夫でした。足の悪い人など高い階にいる人も多く若い人に手をとってもらったりする人も見うけました。(ヘルパー)
*携帯電話が繋がらなかった。会社、友人への連絡が遅れた。(受信も含めます。)自宅の防災用具がすぐに取りにいけない所にあった。
*介護保険認定調査のため訪問途中でそのまま予定の高齢者宅にむかう。訪問先の高齢者落ち着かず調査手間取る。ケアマネより安否確認の電話つながり、本人も自立程度の高い人物であったため、特に見守り必要なく調査完了し戻ることができた。(社協・道)
*職場に連絡がとれなかった。(携帯電話がつながらず連絡がとれたのは知り合いのPHSから)交通網がマヒしており徒歩で職場に。(4時間以上かかった)結局業務のために職場に宿泊した。(社協・屋外)
*当日来られる事になっていた代替さんが、利用者を迎えに行って下さり、途中で(世話人が)引取った。お弁当を人数分購入して、ご自分は自宅に両親が居られ心配なので戻られた。やっとつながった電話で、杉の子城山(1名)自宅に連絡していただき、車で迎えに行かれ寮に送って来られた。(土、日も寮に居りました)弥生福作(1名)職員の方より連絡有り、本人が大丈夫だから自分で帰ると作業所を出た。帰寮20:40、途中電話が有り。公衆電話も人が並んでいて時間がかかり、バスも満員で歩いて帰寮。・杉の子大和(1名)同一建物で心配なし。
*支援先の企業のオフィスの机の下に入って治まるのを待ち、社員さんの指示で近くの公園へ避難。支援している方の保護者に連絡が取れなかった。電車が止まり帰宅できないことを伝えるのに時間がかかった。
*身を防ぐ行動がとれず業務継続。携帯電話が使えず家族への連絡が取れない。職員との同行帰宅に対し自身のルートを優先させようとする。
*電車が不通のため帰宅できず、職場で宿泊。翌朝、運転再開したため帰宅(方面別に班を編成してダイヤが普段と違っていても帰宅できるようにした。)
*孫を学校に迎えに行った。娘が帰宅できず翌日帰ってきた。
*2階に住む長男宅の孫(小4)を学校に迎えに行った。長男の嫁(会社員)も帰宅できず、翌朝帰宅した。
*利用者と支援員の所在を確認し、安全が確認できるまで施設内で待機した。
*電話での連絡がとれなかった。幸い通園バスの利用者は予定通り帰宅できたが、家族が迎えに出られなかったり、バスが動かなかった場合混乱も有ったと思う。
*安全確認をした上ですぐに1階に行きホールで待機した。
*エレベーターが利用できないため車椅子利用の利用者を1階に降ろすのが大変だった。電話が使用できなかった。
*当日は電動車イスの方と一緒で、その方の1Fにある職場にいました。かなりの揺れを感じたものの、物が倒れる被害も無く、複数でいたためか特に混乱も無く出入り口までの動線を確保した。障害者の方の自宅は電車で1時間半の所にあるが、終日不通で帰宅できず、近くの友人宅に泊まり、その方を残してヘルパーの私は徒歩で3時間近くかけて帰った。
*作業所、通勤先へ連絡するが、なかなか連絡が取れないところが多くあった。グループホームなので、利用者1人1人通勤先が異なるので、迎えに行くのも人によってすぐ行けず、交通渋滞もあり夜になる方々もいた。お休みをとってグループホームにいた方は、その時間は帰宅されていたので保護できたが、一人で外出中の時に起きると対応が困難となる。
*携帯固定電話共に不通になり、派遣場所より本社に連絡が取れなくなった。バスで通勤している人が多いので、ターミナルが混みバスに乗れなくなると考えたので、当日は現場指導員の判断で早めに帰宅させた。

翌日や数日後、困ったことは何でしたか?

視覚
*3.11で物が倒れたり落ちたりはなかった。ガスは元栓を開ければ復旧、水は井戸水もあり(水道は断水しなかった)
*ひざを傷めてしまった。
*何かから手を付けてよいか迷った。
聴覚
*スーパーで買い物するときなにもありませんでした
*ガスが止まったが安全装置の解除方法を覚えていたので自分で戻すことができた。
*中野難聴の行事があったが情報が入らず、会場に行った。そこではじめて中止がわかった。
*地震直後に3/12予定の行事中止を決定しましたが、一部連絡がつかず、会場に来てしまった人がいました。ご迷惑おかけしました。テレビの情報、テロップで表示されているのはごく一部で、原発が危ないことをしきりに報道していたと、後で妻から聞きました。
肢体
*駅のエレベーターが使えなくなり困った。
*電車の始発場所がかわり、1日目はホームいっぱいの人で構内に入れず学校を休んだ。しばらくは早めに家を出て、混んでいる電車に乗った。
重心
*予備はあったが、三週間後に衛生用品を購入しようと思ったが販売されていなかった。
*紙おむつが不足。薬局に注文しても入手できなかった。
*パンや弁当、トイレットペーパー、水などが品切れ。放射能に関する情報やデマで外出がこわくなった。エレベーターが止まり、イベントが中止になった。いつも体が揺れているようで夜中に目が覚める。
*エレベーターが止まってしまったので外出できなかった。家族が仕事で家にいなかった。

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精神
*食料がうりきれていて本当に欲しい生活用品、食料品が手に入らなかった。緊急地震速報が出るたび少し怖かった。
*情報がまとまりがつかず錯綜していたこと。
*銀行のキャッシュディスペンサーが夜間使えなかったこと。
知的
*地震がトラウマになった様で、常に地震が起きないか心配している。
*三半規管に少し心配があるので、揺れが続いて、酔ったような気持ちの悪い状態に子供がなっていたので体調も心配でした。
*地震に対する恐怖感です。とくに本人はとても気にしていました。困ったという事ではないが、外出をあまりしなくなりました。(学校以外)
*いつものTVが地震関連報道でやらなくて、少し混乱していた。
*子供の体調が悪く親子で家にこもっていた。余震がある度、子供がびくびくしていた。
*店が閉まっていたり、暗かったりして、いつもと違うこと、大好きなテレビ番組がなくなってしまったこと等、いつもと同じように過ごせないことに動揺し、時々泣いていました。
*しばらくの余震に対し、地震という非常事態が理解できないので頭を守る、伏せる、机の下にもぐるなどの行動を素直にやってくれない。
*怖い思いをして、ショックも受けたと思いますが、特に困った事はありません。現在月に5~6回位通所しております。喘息、心因反応で通院もしております。体調のいい日には喜んで通所もしております。
*数日間は神経質になり、怖がっていました。又、現在でもTVのテロップ、ほんの少しの振動でも敏感に反応。揺れていない時でも、時々「ゆれてる!」と言っている。親の私も、今も「めまい」の薬を服用。
*本人も私も落ち着きませんでした。テレビを見ていると心が暗くなるのでやめました。
*早朝散歩やウォーキングをやめた。少しストレスがたまっていたと思う。
*後日、パニックになる事が多かったです。
*本人が余震のたびに落着かない様子を見せ、TVの報道も嫌がった。
*余震もあり、落着きませんでした。暫く日常のテレビが見られなかったこともストレスがあったようです。
*余震のたびに息子はこわがり、すぐにヘルメットをかぶったりテーブルに下に入った。これ自体は良い事かもしれませんが、自宅でない時、パニックを起こさないかと心配になった。
*少しの揺れでも不安がる。
*揺れると、地震‼、地震‼、と焦る。
*震災から3日目(月)電車通所している方に、混んでいるからバスにしなさいと言ったが、どうしても電車で行くと言い、9:30になっても作業所に着いてなく、駅(高円寺)まで探しに行き、連れ戻しバスに乗り、送って行きました。11:30着。当分の間バスで通所しましたが今度は定期券の有る電車通所に戻すのにひと苦労でした。
*余震で交通機関が乱れたりした際に対処法がわからないこと。停電時の対処が自分ではできないこと。
*電車の復旧に時間がかかり、数日間は徒歩で送って行きました。
*通所手段の電車が利用できず(計画停電)バスと歩きのルートに変更、通所時間が長くなった(半月位)。
*交通手段が不安定だったので通所施設への送迎が不可欠となった。
*しばらくは電車通所に付き添って対応した。(不安な気持ちになっている。)
*余震が心配で、欠勤させようか考えました。
*交通機関が使えなかった。エレベーターにのれなかった。GHのメンバーが交通機関がマヒしていて困った。
*仕事は地震や電車のダイヤが落ち着くまでということで、1週間ほどお休みを頂き、本人は喜んでいました。地震や津波についてはニュースなどで見て、なにか大変なことが起きたとは思ってもそれに対して恐怖や悲しいという感情は出ませんでした。
*朝は電車が乗れませんでした。(本人)電車のダイヤが乱れていたので、早めに出かけていました。(保護者)
*いつも使っている生理用ナプキンが売ってなくて困った。
*グループホームから地下鉄を利用して通勤しているので、交通の安全や突発性の事態にもし遭ったらと…(そのような場合の息子の行動)翌日から自宅でも食糧確保に大変な思いをしました。グループホーム世話人さんのご苦労を考えると…!!感謝です。
*午前授業と給食も出なかったため、仕事を休むことになってしまった。
*仕事は通常であったので、学校授業短縮、給食なしで、ひとりで過ごさせる時間が長くなったこと。
*数日後に水の問題(水源の放射能値)が出てからは子供の飲む水に注意するようになりました。余震(?)が続いて少し神経過敏になりましたが、子供が意外に適応力があり、(揺れたらすぐにテーブルの下に入るなど)対応がしっかりしていることがわかり、気持が少し救われました。
*何日も自宅待機や短時間授業が続き、仕事との調整がとても大変でした。又、自宅に兄弟で残す事への不安も大きかったです。
*朝の登校時間が遅い時間になり、子どもを送り出してから出勤をしなくてはならなくて仕事に影響があり困った。計画停電等でスタッフが足りなくて、脳波検査が受けられなかった。
*福島の原子力発電所の事故?を知って仕事をしばらく休ませようかと外出させること悩んだ。
*一番困った事は、台所のシステムキッチンの戸棚のロックがかからず、食器がダンボール1.5箱分落ちて割れた。スリッパを履かない息子がガラスを踏んだら大事になるので、父親と寝室に居てもらい、私は朝4時頃まで掃除をしていた。
支援者
*ご家族が不安になり、数日間お子さんの通所を休ませた。
*震災から3日目の月曜日、グループホームで電車通所している方に、混んでいるからバスにしなさいと言ったが、どうしても電車で行くと言い、9:30になっても作業所に着いてなく、駅まで探しに行き連れ戻しバスに乗り送って行きました。11:30着。当分の間バスで通所しましたが、今度は定期券の有る電車通所に戻すのにひと苦労でした。
*交通機関が乱れていたため、支援等で目的地に向かうのに時間がかかった。又、障害者本人に対しての通勤支援が困難になり、保護者の協力を得ながら対応した。
*翌日からいつまで、どの状態で通所施設を再開させるのかの判断に迷う。(通所施設施設長)
*余震が続き命を預かっている立場なので外に出た方がいいのか判断が難しい。通勤がスムーズにいかない。(通所施設職員)
*余震、原発の件でお休みにするか、早退させるかなどの判断が難しかったこと。(通所施設職員)
*お水が不足したこと(放射能で水道水も危ないとのことで)
*食料品が不足しがちで。ショックで精神的に不安定な時期があった。
*体が何時もゆらゆら揺れているようで弱りました。(視覚ヘルパー)
*ようやく電車が動き帰宅したのが翌日朝3時だった、電車が動かず出勤できない。
*エレベーターの復旧。(通所は休日のため問題なし)
*本人達がいつもと変らない日常を送ろうとし、外に買い物へ出てしまう。(危険なので屋内でと支援したが)また、見通しもつかない。避難先で障害者を受け入れできる体制を整えていく。
*電車が動かなかったので、2~3日は自転車で通勤した。
*交通機関が麻痺して通勤が思うように出来なかった。給食がストップしてしまい、予定していた授業や行事を縮小しなければいけなくなった。
*交通機関のマヒにより職場に向かうことが難しかった。施設内にクラックが入って補修工事を行わなければいけなかった。
*余震の心配でなかなか日中外に出られず、屋内での活動が多かった。
*利用者やその家族・職員がどのような状況で何に困っているのか情報がつかめなかった。
*不安定なダイヤで交通が不便だった。障害のある方がしばらく、不安定な状態になる方も中にはいた。
*余震、交通機関の混乱により通常の運営をすべきかどうか悩んだ。
*交通機関が再開されても電動車イスの方にとってはエレベーターの問題で行動が制限されました。
*余震のためエレベーターの安全が確保できないとの理由で使用できない駅が多く、また各駅で対応が異なるため、下車しても地上に行けない事態に見舞われました。乗車駅では降車駅の状況まで分からないと言われ、今後、各路線で統一した対応を望みます。
*翌日の仕事の時、時間通りに電車が動いていなかったので、時間通りに仕事が出来なくて困った。
*余震の大きいのがきた時に、身の安全が図れるか心配だった。必ずしも室内にいるとは限らないので。また保護者への連絡で、携帯を持たない方への連絡手段がなくて困るかもしれないと思った。
*交通機関の状況により、出社できない職員がいた。就職をしている登録障害者の中には、自宅待機が続く人もいた。計画停電等の情報に振り回され、

p38
駅等での混雑がひどかった。上記と関連し、全てにおいて敏感(神経質)になり、物不足や風評被害につながった。
*電車の運休、バスの遅れ等。余震が続いたので、揺れると落ち着かなくなる人もいた。
*次の日は業務を行ったが何人かは電車の都合で休んだ。職場がその後4日程クローズされた。障がい者からは、家にいて暇だった、仕事に行きたかったという声が出た。
*停電等の影響で出社するのが困難な社員が発生した。
*月曜日は交通機関も不規則ながら動き始めたので,また、全員無事出勤されたので本当に安心した。 退社時間も状況に応じながら定時より早めに対応したのでよかったと思う。
*月曜日は交通機関のマヒもあり、休業としました。火曜日からは通常通り業務を開始したが、まだ混乱状態のため、就業時間を早めにしました。 
*計画停電への対応と、それに対する不安感への対応。余震に対する不安感への対応。 

震災を経験してどのような対策があればいいと思いますか?

視覚
*一人は不安だと思いますが近所の方々の声かけで少し落ち着きます
*一人でいると不安なので誰かすぐ来てくれるとうれしいです。
*大勢の人と一緒なら心強い。視覚障害者を一人にしないでもらいたい。
*近所との連携。
*連絡したい人に連絡とれるシステム。
*白いタオルを門にという練習があったが、家族がそろっています(無事です)。という目印決めがあるといいかもと思いました。
*視覚障害者の避難所確保及びその後のケア。
*大勢の人達が安心して避難できる場所の確保
*あとで聞いたが中野駅でビラを配って、中学校等に休憩所を設置したと…そのような情報を広く伝わる方法を考えてほしい。
聴覚
*安否確認のための訪問。ボランティアのところへ行けばいい。
*細かい情報が欲しかった
*3月11日は初めて見たので怖くなったが自身をまもっていきたい
*準備をいつもしています。しかし屋外の時には使うことができなかった
*妻がいないときにどうやって情報を得るか、考えてしまった。安否確認できる方法がほしい。
*日本語が十分でない人のために、英語の文字情報ももっと発信できるようにしてほしい。
肢体
*出先でこのようなことが起きると本当に困る。いつどこで起きるかわからず、まあ出掛けなければ皆様に迷惑をかけずにすむのではと思った。
*中野の町 一番に火災がおきる対策を考える事。
*震災がくればすわって、何も考えることができませんでした。
*私は動けないので水の心配をした。何日間かの水をどうしたらいいか。
*声をかけ合うことだが、なかなか難しい事のように思う。
*障害者のことを心のケアと共に、もっと考えてほしい。
重心
*避難場所の設備とそこへたどり着くことができるか心配です。
*ニュースを見て、重度の障害者には避難所は不適と感じた。
*通所施設から今回は帰宅できたが、帰宅困難な状況に備えて各施設での備蓄をしておくことが必要。
*隣近所の声かけと助け合うことが大事。避難場所の確認と経路を知っておくこと。
*電話が通じなくなったので、区の職員や施設の職員が自宅に来て、困っている事をリサーチしてくれること。
*弱者の方の支援方法が現在どうなっているのか知りたい。
*助けを必要としているか、確認してくれるシステムが欲しい。
*自宅が3階建ての階段で、歩行が出来ない子を酸素と一緒に連れ出すのが大変なので、今後の課題です。
*24時間365日誰もが相談やヘルパーを利用できる環境。カルテを本人が扱える環境
*車いすでは遠くの避難場所には行けないので、避難場所を細かく設置して欲しい。
*常備薬、人工肛門の装具やオムツ、パットが受け取れるシステム。人工透析が受けられるシステム
*国や会社で防災マニュアル、避難マニュアルの見直しをしてほしい。緊急、広域避難場所を家庭環境等で一人一人話し合って決めてほしい。東京では避難経路がどの会社も同じで青梅街道等に集中していたから考えてほしい。
精神
*施設の建て物に対する改修助成。食品、備品(保存用)の物品提供。
*避難訓練等の強化をすればいいと思います。
*落ち着くこと。落ち着いて行動すること。
*災害に関して普段から色々準備しておいた方がいいと思います。
知的
*避難所にて大声やパニックになる可能性が大で本人より私たち家族の心労を考えると避難できない。同じような障害者が集まる避難所を設けていただきたいというのは贅沢な要求だろうか。
*家族バラバラでも安否確認ができることがいいと思うので、学校は学校預かりで、いざという時の連絡方法を日頃から話し合っておく。日頃歩いているところの避難場所も知っておく。
*今回なんとかメールが通じたので、ホームページだけでなく、連絡網形式で良いので、電話以外の通信連絡方法があっても良いのではと思いました。(保護者からも伝えたいことがありますので。)
*スムーズな連絡手段と地域情況の広報(ワンセグ受信は出来たが、広域かつ東北中心だったため過中の役には立たなかった)
*本人との連絡①無事かどうか②場所はどこか③帰宅できるかどうかが判るような方法はないか。
*首都圏直下型の場合、安否確認方法をどうするか?中野区内の連絡網は?各作業所間と消防署などの連絡網は?
*電話連絡ができなくなった時の伝言の方法決めなど。
*緊急時の連絡網。日頃の準備(月ごとの防災訓練)はとても大切。
*インターネットでの安否確認がスムーズに出来れば良いと思った。
*避難所生活を強いられた場合、特別支援学校で、障害のある仲間同志避難出来れば良いかと思います。
*障害のある人(特に集団の場に居られない人)のための避難所の確保。
*気兼ねなく避難出きる避難所。東日本大震災の報道を見ても気兼ねして車で過ごしている人が多かった。
*福祉避難所をしっかり決めて欲しい。普通の避難所では、嫌がると思う。そのことが一番心配。特別支援学校は優先で、場所を確保したらいいと思う。中野区内で、どこだったら、安心して避難(知的障害の人も受け入れてくれる所)できるのか知りたい。
*心配なのは、やはり避難所での生活。家以外ではなかなか眠れないのに、さらに混乱している一般の避難所で過ごすのは無理。落ち着かず、歩き回ったり、大きな声を出したりして、回りに迷惑をかけることを考えると、一般の避難所には行けない。安心して過ごせる避難所がほしい。
*障害者の避難場所の場所(地図など)を広報で徹底してほしい。
*障害者が安心して居られる場所があると良いと思います。避難所など大勢の人達と一緒の所では、落ち着けないと思います。
*実際に避難所で生活する事態になったら、一般の方と一緒の生活には多大なストレスがかかり、不安定な精神状態になることが想像されます。それぞれの障害にあった避難場所を確保していただきたいです。
*建物の耐震確保、安全な避難場所の確保、長期に渡って避難生活の必要ある場合は、障害をもった人達に特化した避難所の確保
*親子それぞれが別の場所にいることが多いため、それぞれが安全な場所に避難できているといいので、学校は学校にいる場合そのまま待機、保護者の引き取りまで預かってもらう。電車やバスなどに乗っている場合、バス電車の職員からの避難指示を徹底してもらえるとうれしいです。普段から子どもに「もしもの時は・・・」を言い聞かせておくことも大切。
*子どもが学校にいた場合、家族が引き取りに行くまで預かってほしい。
*保護者会で災害時の避難場所や連絡などの詳しい説明を聞き、心強く思った。私は仕事をしてないので、迎えに行き、帰宅することは可能だ。
*日頃の避難訓練と、当日の対応のしかたが大切と思います。今回はスムーズにバスが運行しましたが、渋滞になったり道路の事故があったりする事を考えると、園から送り出す時の状況判断が大切だと思う。
*親と連絡を取ってから相互合意の後、帰すなり泊まらせるなりして欲しいと思いました。当日は大丈夫だろうとの思いで本人を帰していましたので(震度5強以上は帰さないと決まりました)

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*職員の方と事前にどうしたら良いか話し合っておくこと。避難訓練。
*いつ起こるか分からないものだから、会社‐グループホーム‐自宅などでこのような事態のときの対応を話し合っておくことが大事。
*登録していたのに何も連絡ありませんでした。何の為の災害救援希望者だったのでしょうか。
*障害者は避難場所に皆様と一緒に生活できません。今いる所で生活するしかないと心に決めました。
*災害時、救援の登録を是非お願いしたい。近くの(町会等)防災会等と連絡が取れるような方法がほしい。
*車椅子を利用しているので、大地震の時は不安なので救護を希望。
*現在、本人1人になる機会がないので安心しているが、電車の中にいた場合やパニックになったり、ケガをした場合、自分から助けを求めることができない。マニュアルや練習、訓練が必要。
*子供が学校にいる場合はまだ良いのですが、通学途中(特に電車の中など大変・・・)で大きな震災にあった時、連絡が取れない場合、どうしたら良いか対策があれば良いと思う。
*通勤途中で起きた場合、自分で判断が難しい障害者に配慮した本人たちに判るような政策を作って欲しい。
*通学の途中だったらどうするか等、具体的に考えておくことが必要。困っていることをきちんと訴えられるように本人に覚えてもらいたい。
*本人が、意識を持って対処できるかが鍵になると感じました。連絡先などがわかるようにメモか何かを持たせたら良いかなと思います。
*知的障害・発達障害に関して言えば、災害時に自分なりに判断して行動できるように育てられている事が一番大切ではないかと考えます。
*万が一の時、集まる場所を父と話し合い連絡する電話番号(父の携帯)を確認した。
*作業所へ娘を迎えに行くことが困難である場合、作業所に食料、毛布などの備蓄があればと痛感しました。(現在ありません。)
*日中は作業所に通所しているので、所内に居ればまずは安心だが、区立作業所が地域の第二避難所にも関わらず、防災の為の備蓄品がないので、備えて欲しい。障害者用避難所も地域ごとに指定して欲しい。
*家の中の片付け、安全な避難通路の確保など少しずつ平常時から準備する。作業所など多くの人が居る場所では常に新しい正確な情報が得られるよう、ラジオなど(停電時でもOKの)を用意しておく。
*災害時、保護者が帰宅困難者だったり、又は、途中が火災だったりする事も考えられる。通所している場所で、宿泊できる準備があると安心。
*通所施設とグループホームには2~3日分の飲料、食料(乾パン等)を備蓄しておいてほしい。
*子どもにGPS機能のあるものを持たせる。異常事態の時は、家族が迎えに行く。
*身元が分かるように何か身につけようと思います。
*自分のプロフィール(住所、薬の服薬、介助の概要)を話せない方には、本人もカードを持参すると共にその情報をもつキーステーション(避難先)が必要だと思う。避難先で障害者を受け入れできる体制を整える。
*彼らは体験から学ぶことが多いので、日ごろの訓練が大事だと思いました。いずみ教室では、1回実施しました。
*友人や知人同士、もっと連絡しあったり、困ったことや頼みごとももう少ししても良いのではないか。
*改めて道路を見た時、電線の多いこと。電信柱が倒れたら道は歩けない。少なくする方法はないのか?
*母(90才)と同居の為、何かあったら部屋のドアを開けて、安全を確保。
*避難所、トイレ、食べ物を増やしてほしい。
*判断能力に乏しいので職場なら責任者に願うしかありません
*直後からマスコミは現地で取材をしていたが電話や交通が遮断される状況でテレビ放送でしか現場の様子を知ることができなかった。ひとりひとりの名前を早い段階で知らせる方法を取れたらと思いました。
*車椅子使用の利用者の居室は1階にするべきだと思った。
*帰宅を無理しなくてよい待機施設が多くあるとよいと思った。正確な情報の発信地の確率と整備が重要である。
支援者
*避難所を各障害者施設とし、物資の充実をはかって欲しい。
*小さいうちから自然災害から身を守る心得や命の大切さを知る機会があってもいい。そのような教育対策。
*電気の確保と食べ物の備蓄。
*職場に備蓄食や水があればよい。情報基地やテレビ。
*被災直後は大きなシステムが機能停止してしまう。電話・公共交通など
*次の日は業務を行ったが何人かは電車の都合で休んだ。職場がその後4日程クローズされた。障がい者からは、家に居て暇だった。仕事に行きたかったという声が出た。
*職場も含め世間全体が少し落ち着くまでお休みをお願いしたが(約一カ月)ご本人が長期の休みへの理解がなかなか難しいようだった。
*月曜日は交通機関も不規則ながら動き始めたので、全員無事出勤されたので本当に安心しました。退社時間も状況に応じながら定時より早めに対応しましたのでよかったと思います。
*服薬者の服用薬のストックについて、宿泊者への対応のため。 
*事前にどのように行動するかを保護者としっかり話し合っておく。
*一人で四人の利用者さんへの対応には戸惑いが有った。普段から個々の事情を考慮した話し合いが必要だ。(グループホーム職員)
*学校内の対策はマニュアルができている。各家庭での対応策を整備。
*連絡が取れない場合に備えて、避難先を予め決めておく。(家庭、職場の中で)障害のある人へ予め別の交通ルートを教えておく。
*ご家族と連絡をとる手段。帰宅困難にそなえ服薬中の薬の携帯(各自)
*会社として、緊急時の連絡網整備。外出している際の集合場所などを決めておく。 
*エレベーターが停止した際の、スムーズな避難方法。(フロアが3階にあるため)帰宅できなかった場合の受け入れの方法。
*施設間の横のつながりがあると情報交換ができる。障害のある方の避難所は必ず必要。通所施設が拠点となれるように備えておきたい。
*施設と地域で協力して年1回防災訓練などを行っているが実際あまり連携が取れていなかったように感じるため、各関連機関などで災害時どうするかのシュミレーションなどが必要だと感じた。
*災害時の避難マニュアル作成。備蓄品の十分な確保。震災後無理に施設を開けない。(世の中が安定するまで様子を見る)

災害時のためにご自分で準備していることや行なっていることを教えてください。

*一人暮らしの人はやはり誰かとつながりを持つことが必要。
*たんす、棚は低いものや下に置くようにしている。地震の時はドアの内鍵を開けておくように妹に言われている。
*避難用具リュックを玄関に置く。懐中電灯を枕元に置く。ガラスなどでケガをせぬよう靴下を枕元に置く。外に避難してもいいようにいつでも飛び出せる温かい服で寝る。
*近所の人とあいさつしたり、話せるときには話をする。(通所施設職員)
*家具や窓ガラスに耐震対策。避難経路や連絡先の確認。区や町会の防災訓練への参加。
*災害時の為の用具の確保と内容の見直し家族・仕事場との連絡先手段確認と日頃のコミュニケーション。
*防災袋の用意(自宅・職場)原発事故について何人かの友人と定期的に話しをし、対応を相談しておく。
*家具の扉が開かないようにする器具の取り付け。
*携帯電話(スマートフォン)の緊急地震速報をONにしている。
*大きな機関が一元的に把握しているような見守りシステムでは対応できないことがはっきりした。
*水はいつも補充している。子供のいつも飲んでいる薬をいつも余分にあるようにしている
*現在の通学路(徒歩)の途中に、知人にお願いして、いざという時に預って頂けるようお願いしている。
*避難所に子どもがいるのは難しいと思うので、なるべく家族が家で何日間か過ごせるように物資を準備しておく。
*非常用持ち出しバッグを作ったが重くて重くて、持ち出せないと思う。 
*周囲に知っている人がいる時は、パニックにならずに指示に従えるよう日頃から良い関係であることが大切。全く1人だったら自宅に帰ろうとする、そのための情報をちゃんと受け取れる力が育ってないといけない。
*家具などを倒れないようにするには1人ではできない。 
*本人の飲んでいる薬、水、食物最小限はリュックに入れてあります。
*家族での話し合い防災の勉強をしつつ、周囲にも輪を広げる活動を。
*防災用具の準備や本人への意識づけ、近隣や知人への協力。
*本人には幼→小→中→高etc. での避難訓練の経験・体験、又自宅で幼いころからTVのニュースを見ながら教えてきた。今はその時自分のいる場所の中心となる方の話をよく聞いて落ち着いて皆様と一緒に行動するように話している。

p40
色々な意味で「備えあれば…」という事。
*通勤している会社は中野区内なので本人は歩いて帰れるので、地下鉄に乗らずに時々は1駅くらいは歩いて帰るようにしています。
*施設では必ず月1回防災訓練を実施している。
*緊急対策グッズ購入や地震に備えての本棚が落ちてこないようにした。又、フェイスブックでの安否確認と避難場所を身内や主人と確認した。
*会社としての震災時対応備品を再度見直し、準備を進めている。 

その他、感想、意見、要望などお書きください。

*地域の方々と時々話し合うべきだと思います。
*中野区の事だけでなく、他からの災害弱者のヘルプが出来るような、連絡網を作成してほしい。今回の災害時、中野区や新宿区に障害者の方々がいると思いますが、全然その情報が入ってきません。災害地へ行けない方々が、地元で何かお手伝いしたいと声がありますが…。
*現在は都営住宅が取り壊されて空き地になっている場所に一時避難を考えている。防災無線で指示、活用して欲しい。防災無線での指示が聞こえなかった。
*都心で大きな地震が起きたら何も出来ない。広い場所があるわけでもない。中野は緑が少ないから火が出たらどこへ行けば良いのだろうか?
*当時一緒に何人かでいたが、もし一人だけで家に居たら困った
*夫の兄弟は宮城に住んでおり、5月に仙台に行き、地震の時の様子を聞き、とても心が痛んだ。地震に限らず何が起きるかわからない世の中。こんな時だからこそ、お互いに助け合いの精神を持ちたいと思う。
*火事が一番こわいので、火のしまつ、どこへ近場で行ったらいいかシュミレーションをしたりしてます。
*日本の国から原発をなくす。
*災害時救援登録制度に登録しているが、救援してくれる相手の姿をみたことがない。登録しているもののどのような救援をしてくれるのかを区の防災課に尋ねると、震度5強以上の時に安否確認をすることだそうで、自力で避難が困難な者にとって、この制度の意味がよくわからなくなった。自力避難困難者に対する避難の仕方について考えて欲しい。
*障害者は今回のような大震災を生き抜くのは苛酷であると思った。
*火災が発生すると避難せざるをえません。避難に際し、手助けがないと必要な物品の持ち出しは出来ず、即生命にかかわる程の困った事態になってしまう。避難所に医療機器の備蓄があると助かる。
*大災害の場合、全ての命が救える状況にはない。94歳、呼吸器をつけている母を思うと、たとえ避難所に行けたとしてもそれからの状況が大変きびしい。無理したくないと思っている。
*避難所に車椅子トイレが設置されていなければ優先的に公共施設などにまわしてほしい。常に介助者を確保出来るかが心配。介助者が被災したり、ライフラインが止まると生きていけない。
*いざという時、自分が事故にあって亡くなってしまう場合もあるので、子供は身元がわかるように、その場所で指示がきけて過ごせるように「急なことがあったら・・・ということを普段から言いきかせなければ」と思った。
*区内の町会や施設などいろいろな場所で防災訓練が行われているが、区民一人ひとりがどのような避難システムが必要であるのか話し合う。
*地震発生時に子供は決まった通学路以外の道(方法)で帰宅することは困難だと思う。非常時に子供と連絡を取れる様に対策を考えたい。
*国や地方で電車等が止まったときのために緊急の宿泊場所を用意しておくべきだ。保存食の用意も。
*区の救援希望者に家族が登録しているが、災害時に具体的に何が行なわれるのかを知りたい。
*自閉症関連の障害があると一般の避難所に避難するのは難しい。感覚過敏のある本人には人が多い場所はつらいし、我慢の限界を越えて常同行動(うなったり、走り回ったり)が出れば、周囲の方に迷惑になる。受け入れてもらえる避難所があるなら、情報を周知してほしい。また安否確認の手段(連絡網など)があれば心強い。
*大きな災害時、障害を持っている方でも長期に避難できる、または必要なサービスを受けられる場所を確保できるような準備があると良い。
*障害者自身の防災学習の機会を積極的に設けるべき。障害者に特化した避難所設置や運営は避けるべき。
*まだ低年齢の為、保護者ヘルパーさん等の大人と必ず一緒にいますが、もっと大きくなり、一人で行動しているときに、震災が起こった場合の対策も、今後考えていかなければいけないと思いました。
*今はスクールバスで通学しているが、今後は一人通学になったので、登下校中に大災害が起きた場合を考えるととても不安になります。
*3月11日の震度5強でも交通機関がマヒし商店から品がなくなり、東京直下の大地震だったらどうなるだろうかと想像もできない。携帯やメールも全く通じなかったらと思うと本当に恐ろしい!とにかく、その時自分の近くにいる人と共に、自らの命を守るしかないと思う。一人で通学、帰宅の途中だったらどうしようか~すぐにかけつけられればいいが。
*本人がひとりで移動中や外出中だったりすると、大変だ。もう少し大きい地震になると、自転車でさえ、通行禁止とか・・・徒歩しかないが、長距離歩く自信が自分にはないので、捜しに行けるか心配。
*通勤、外出していた方が1人の時、大勢の人が移動している中、止まった交通機関内、安全な場所への移動はどうなさっていたのでしょうか。私自身、職場での安全確認後、自分の家族の安否確認のため、自宅に戻るのが精一杯でしたが、もし途中で障害者の方に会ったら安心して頂くためのコミュニケーション方法がわかると助かります。(伝達方法、安心する言葉、方法、苦手なこと(音、光、触れられる他)連絡先のメモなどはお持ちでしょうが、情報メモは持っていらっしゃるんでしょうか?悪用されるのはこわいけど、最低限でも安心して避難してもらえるのでは?)
*先日の台風では息子の勤め先は早退をさせてくれた。今現在「グループホーム」には日中支援がない。息子も早く帰ってもグループホームに入れないのを知っており、親の居る実家に戻ってきた。親がいつも実家に居られれば良いが、体調不良による通院、入院、その他の事で外出する。出先で今回の3・11の様な事が起きれば自分自身どうなるかも分からない。「グループホーム」は息子(たち)にとって「我が家」。「日中支援」を「国の法律で定めていただく事」を切実に望んでいる。
*本人と家族(グループホーム)で連絡を取り合う手段を話し合ってもらえると助かります。障がいのある方に災害時について、どのような教育をされていらっしゃるかを参考までに教えていただきたいです。
*携帯を持っていない就労障害者も数人おり、安否確認ができなかった。 
*今回火災が起こらなかったことが良かったです。私自身、地下鉄での地震でしたが徒歩で帰ることになりましたが、この間、火災やビルのくずれや電柱が倒れたりガラスが落ちていたら歩いて帰れないと思いました。その場その場の避難指示、案内があることは大切なのではと思いました。今回子どもを連れに行くという目的に向かい必死でしたので・・・ゆっくり考えることができませんでした。
*今回は、小学校、学童クラブが家から比較的近かったので早く迎えに行け、ホッとしたが、子供が成長し、中学になると電車利用の通学で片道小1時間かかる。義務教育の間は中学も学区域内に特別支援級があることを望む。
*災害が起こったら、中野区は逃げられないと思う。傾いた電信柱の多いこと、電線だらけ、住宅は密集しているので、できる事なら小さな空き地でも区の公園にして欲しい。障害者の災害用避難場所を設けて欲しい。
*親が近くにいても迎えに行く事が困難な時もあるので、せめて3日間ぐらい過ごせる対策をとってほしい。
*作業所に被害がない場合は、道路等の帰宅路も安全と思えるので電話連絡の後で、1人で帰宅させても大丈夫だろうと思いますが。
*大災害時の障害者対策は、身体障害重度、知的障害重度のケースの問題を先ず第一に解決すべきだと考えます。
*今回高いマンションなどに住んで居る方たちはエレベーターが止まったりして、大変な思いをされている。医療器具を使っている方たちも大変な思いをしていると思う。
*自閉症で、恐ろしい、大変、こわい等理解できない。
*災害時、運悪く親が留守をしていた場合、会社からは帰宅を指示されており、仮に家にたどり着いたとしても家にはだれもおらず本人が大変戸惑う状況が想像され、どのようにして良いかとても不安です。
*台風の時も同じような経験をした。電車が止まってしまい、帰れず会社の人がバス停迄送って下さって、バスで帰ってきた。台風の時は携帯が通じたので、地震の時よりは不安はなかった。交通が駄目であれば会社から離れず周りの人と一緒に行動するように確認した。
*地震に見舞われた東北地方でも報道で障害者の施設など、取り上げられていませんでしたが、今後のためにも弱者の人達がどうであったか報道して欲しかったです。今後の参考のためにもそう思いました。 
*グループホームのケア会議にて、改めて各々のホームでの対策を話しあった。昼間発生と夜間発生に区分けして検討を行った。
*施設単独の火災などであれば、近所や地域の方も日頃の訓練通り支援に来て頂けると思うが今回の震災のような場合は地域の方に支援はお願しても無理であると実感した。

表紙3
 中野区障害者防災委員会の構成団体の会員、学校、通所施設、企業の関係者、グループホーム職員の方々など、大勢の皆様に、アンケートにご協力いただきありがとうございました。
 また、各団体でアンケート結果の入力やデータ作成に尽力された関係者の皆様にも感謝申し上げます。
 この冊子が災害時の要援護者支援の一助になることを願っています。

中野区障害者防災委員会 構成団体
中野区聴覚障害者福祉協会
中野区愛育会
NPO法人中野区視覚障害者福祉協会
中野区中途失聴・難聴者の会
NPO法人ねこの手
中野区肢体不自由児者父母の会
中野区障和会
中野難病家族会
LLCてくてく

中野区の障害児・者への東日本大震災による影響についての
アンケート調査報告書

2012年3月11日発行

発行 中野区障害者防災委員会
 〒164-0001 中野区中野5-68-7
 スマイルなかの5階 聴覚研修室内TEL.FAX:03(5380)3330
 Email:jokatu@bf.wakwak.com
 ブログ:http://blog.canpan.info/nsygaibousai/

編集 矢野耕二(中野区聴覚障害者福祉協会)・石川毅(中野区視覚障害者福祉協会)渡辺栄子・土屋佳子・森川晶子・片田明江・防災部会(中野区愛育会)大村美和子(中野区肢体不自由児者父母の会)・濱村務(中野区障和会)
奥野信太郎(NPO法人ねこの手)・中馬こずえ・北澤典子・遠藤寿子(事務局)
編集責任者 佐藤浩子

この「アンケート調査報告書」は中野区公益活動政策助成事業によって作成しました